血の日曜日事件
明治37年(1904)の戦況は日本がロシアに対して連戦連勝を重ねながらも、旅順要塞は健在で満洲はロシアの勢力圏にあり、バルチック艦隊も東征の途中でした。予断を許さない緊迫した状況でした。
明けて明治38年(1095)に戦況が大きく動きます。1月2日に難攻不落とうたわれた旅順要塞が陥落したのです。旅順港もその機能を失いロシアは戦略上の重要な拠点を失ってしまったのでした。
更に悪いことは続きます。ロシア史の大事件『血の日曜日事件』が起こったのです。正教会の司祭・ガボン神父が主導する政府の紐付きの御用組合が、人民のガス抜きのためにネヴァ祭にあわせて皇帝の座所である冬宮に向ってデモを行っていました。
これを見た警備兵がデモ隊に向って発泡し1,000人以上の死傷者を出すという惨事がおこったのです。それまでロシア正教会の守護者であり、国父として敬愛を受けてきた皇帝が、人民を守ってくれないということで権威が失墜してしまいました。以後、日露戦争が終結して落ち着きを取り戻すまでロシア国内ではストやデモ、テロ行為などが頻発していきます。
日本も戦時の予備役召集や増税で社会が疲弊していましたが、ロシアでは血の日曜日事件が起こったことで、増税や予備役召集などで特権階級と被支配階級との間で負担の不公平さががあることなどの不満が一気に噴出するようになってきました。人民の間で厭戦気分が広まり始めました。
ちなみに、現代のロシアでも民衆のガス抜きと国際社会に対してロシアに言論の自由があることをアピールするために政府紐付きの官製デモを行うことがありますが、少なくとも官製デモに対して官憲が発泡をすることは今のところはありません。そう考えると、血の日曜日事件が起きたのは単に間抜けだったせいなのか、それとも誰かが仕組んだことなのかと疑いたくはなりますが、真相は不明となっています。
旅順要塞の陥落と血の日曜日事件、これらのスキャンダルを活動家たちは早速利用します。レーニンは1月14日のボリシェヴィキの機関紙に「旅順の降伏はツァーリズム降伏の序曲である」と激を飛ばしています。これは敗戦革命を狙っての発言でした。ロシアが日本に負ければその混乱に乗じて革命を起こせるという考えで、この時点では人民の不満や不安を煽るために取り敢えず言ってみたというレベルの話といえます。なお、この構図の逆が大東亜戦争における日本国内のソ連シンパの共産主義者でした。
最後まで日本の勝利に貢献した明石工作
戦況は日本優勢のまま推移します。3月10日には奉天会戦にて日本が勝利し、ロシア軍を南満州から完全に駆逐します。しかし、バルチック艦隊は航海の途中で健在でした。仮にバルチック艦隊が日本海の制海権を握ると大陸に残された陸軍は補給を絶たれ、戦うすべがなくなってしまいます。
ここで負ければ今までの勝利が水の泡という中で明石は徹底的にロシアの厭戦気分を煽っていきます。4月に一躍時の人となったガボン神父を加えてジュネーブ会議を開き、反ロシア・反ツァーリズムを強くロシア国内外に喧伝していきます。
そして運命の5月27日、日本海海戦です。この戦いで東郷平八郎はバルチック艦隊の殆ど全てを撃破するという歴史上最高の勝ち方をして、極東のロシア海軍を打ち滅ぼしました。
ロシアは弱り目に祟り目で6月14日には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで反乱がおこり、軍隊でも革命運動が起こるとロシア政府が大きな衝撃を受けました。もはやロシアには戦う意思も能力も残されていませんでした。
しかし、明石はまだ気を抜きません。何故なら戦闘は一応の終了をみましたが、満洲で日露両軍が睨み合った小康状態だったからです。万が一にも和平条約が結ばれなければ即再戦となってしまいます。しかし、極秘事項でしたが、この時の日本軍は弾薬が底をつき戦うことが出来ませんでした。是が非でも戦争を終わらせるために、ロシアの戦争継続の意思を徹底的に挫く必要がありました。
そこで明石が行ったことはロシア国内や東欧諸国の過激派たちへ武器の援助を行いロシア内外でさらに混乱を引き起こそうとしたのです。武器の輸送のうち一部は成功し過激派たちの手に渡ります。しかし、現場工作員のミスにより『ジョン・グラフトン号事件』として武器提供の事実が暴露してしまいました。
しかし、この事実がロシア政府に和平を結ぶことに決定付けさせました。このまま戦争を継続して日本に間接侵略を続けられて、ロシア国内や首都・サンクトペテルブルクに近い東欧諸国で革命運動や独立運動が本格化すれば国家そのものが瓦解するという危機感があったのです。早急に対処すべき相手は日本ではなく、革命家たちでした。ロシアは日本との戦争どころではなくなってしまいました。
ジョン・グラフトン号事件として秘密工作が暴露したことは失敗でしたが、結果的に明石の工作が和平への最後の後押しとなりました。
明石の活躍によりロシアはその持てる力を日本に振るうことが出来なくなり、日本軍は大局的に見れば連戦連勝を重ねる事ができました。そして最後のピンチであった和平交渉においてはロシアの継戦意思を完全に粉砕し、日本の勝利という形で和平条約が結ばれることになったのです。明石の活躍は10個師団に相当すると言われる所以です。
明治38年9月5日ポーツマス条約が締結。明石は工作活動の後始末を付け11月18日に帰国の途につく。12月24日帰朝。日本は絶体絶命の危機を跳ね返したのでした。
■ 前章・本章での明石工作、日露戦争の参考文献一覧 ■
『落花流水』明石元二郎
『日露陸戦新史』沼田多稼蔵、兵書出版社、1924年
『明石元二郎(上)・(下)』小森徳治、台湾日日新報社、1928年
『機密日露戦史』谷 壽夫、原書房、1966年
『福島安正と単騎シベリヤ横断(上)(下)』島貫重節、原書房、1979年
『戦略・日露戦争(上)・(下)』島貫重節、原書房、1980年
『ソ連から見た日露戦争』I・I・ロストーノフ、原書房、1980年
『近代戦争史概説 上巻、付図集』陸戦学会戦史部会、1984年
『日露海戦史の研究(上)・(下)』外山三郎、冬至書房、1985年
『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記 増補』保田孝一、朝日選書、1990年
『新板 日本外交史辞典』外務省外交史料館、山川出版、1992年
『近代日本戦争史 第1編 日清・日露戦争』奥村房夫、桑田悦、同台経済懇話会、1995年
『明石元二郎大佐』前坂俊之、新人物往来社、2011年
『「帝国」の黄昏、未完の「国民」』土屋好古、成文社、2012年
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