議員定数削減は果たして正しいのか?
- 2015/6/22
- 政治
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「身を切る改革」の氾濫
身を切る改革ーこんな言葉が政治の世界で氾濫して久しいです。
官僚は贅沢をしている。政治家は庶民感覚を身につけろ。ある種の嫉妬がポピュリズムと結びついた言説に私としては不愉快に感じていますが、そういったポピュリズム的な身を切る改革と呼ばれるもののなかでよく言われるのが議員定数削減についてです。
国会議員が多すぎる。国会議員は仕事をしていないから減らせ。そういう意見は根拠が乏しい言わざると得ません。しかし、こういった言説は消えるどころか、さらに氾濫し、政治を混乱させています。今回は議員定数削減の危険性についてお話したいと思います。
二つの論理を考える
まずはじめに国会の定数は現在、衆参両院合わせて717議席です。果たしてこれは多いのでしょうか。少ないのでしょうか。
よく、議員定数削減と同じく議員報酬削減を唱える方々は日本の国会議員の報酬は世界的に高額すぎる。グローバルスタンダードに従えと言っています。ですので欧米先進国の議会と日本の議会の議席数を比較してみましょう。
日本の人口の約半分であり、近代議会政治の発祥地であるイギリスの議会では上下両院合わせて、1429議席です。およそ議席数は日本の国会の約二倍です。またイタリアやフランスなども日本より人口が少ないにも関わらず、イタリアでは951議席、フランスは920議席と議会の議席数は日本より圧倒的に多いです。
アメリカの場合は、議会の議席数は535議席と日本の二倍以上の人口を抱えながら、日本の国会の議席数より格段に少ないですが、そもそもアメリカは各州が極めて強い 権限を持った連邦国家で、中央集権国家である日本と比べるのは不適当と言えます。(日本が極めて権限の強い、州軍などを持った道州制、事実上の日本解体を行えば話は変わりますが)
このように欧米先進国と比べるてみれば日本の国会議員が格段多いという論理は通用しないと言えます。むしろ身を切る改革を訴える方々が唱えるグローバルスタンダードに従えば日本の国会の定数は少ないとさえ言えるでしょう。
もう一つ、議員定数削減論者の重要な論拠とされているものとして、国会議員は仕事をせずに怠けている。だから国会議員の数を減らせというこの主張、論拠も幼稚なものと言えるでしょう。確かに、私も全ての国会議員が国家の為に、命を賭けて仕事に励んでいるとは考えていません。国会に席を置いている意味があるのかと疑問に思う国会議員も実際います。しかし、議員定数を削減すれば国会議員の質は上がるのでしょうか。国会議員の質が低下しているというのなら、国会議員の質を如何にして上げるかという議論をすべきでしょう。
国会議員の質を上げる、質の低い国会議員を落選させるという努力をしないで国会の定数を削減すべきという議論は論理のすり替えに他ならないと言えるのではないでしょうか。
議会政治の崩壊
もし、仮に国会の議員定数が今の半分近く、あるいは半分にまで削減されれば、百二十年余り続く我が国の議会政治の崩壊を招く可能性があると言えます。議員定数が削減されれば、当然、少数派、マイノリティーの意見は無視されてしまいます。ポピュリズムなどが流行し、一時の風潮で投票先を決める昨今において、日頃より政治に関心がある良識ある少数派の意見は極めて貴重と言えます。そんな少数派の意見が議員定数削減によって国会から締め出されれば、フランスの哲学者トクヴィルが警告した「多数者の専制」がより一層酷くなるでしょう。
そうなればポピュリズムが行き着くところまで行き、ヒトラーのような独裁者を生み出す可能性も現実味を帯びていくと言えるでしょう。
また、議員定数削減が行われば地方や農村の選挙区は統合され、極めて広大な都市部偏重の選挙区が誕生すれば、広大な選挙区では政治家と選挙区民との距離が遠くなるという懸念も考えられます。政治家と選挙区民の距離が著しく遠くなれば政治への関心も薄れてしまい、政治家も有権者の生の声を聞くことも難しくなってしまうと言えるでしょうし、地域の利害を代表するという政治家の在り方も議員定数が削減されれば、難しくなってしまいます。
地域の共同体を母体とし政治家を育て、支援してきた従来の日本の政治風土を壊す、それが議員定数の削減と言えるでしょう。
国民の自殺
身を切る改革と言って、議会政治の筋肉や骨までも切ってしまえば、それは議会政治、引いては国民の自殺にほかなりません。国会議員は我々の代表者です。その数を減らすなどという暴論に出るのではなく、国会議員、政治家の質を如何にして上げるか、こういった議論をこれからはすべきでしょう。
そうしなければ、ジェラシーによって政治を破壊し、気付いた時には我々、国民の権利自体も切ることになってしまうでしょう。
コメント
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岡部凛太郎さま
全面的に賛成です。
橋本行政改革、小泉構造改革以来、政府は、「国民と痛みを分かち合う」なる美名のもと、日本の悪しき伝統である「倹約の美徳」を悪用して、国民には「膨大な国の借金」というウソをまき散らして消費増税を強い、そのルサンチマンの解消手段として、「自分たちも血を流す」という名目で議員減らしや公的経費節減を実現させようとしている。これらはすべて、国家の自殺行為です。倹約は何ら美徳ではなく、所得に限りがあるので仕方ないからするものにほかなりません。
ところで、政府の財政は少しも困窮していず、必要とあらばいくらでも国債を発行でき、通貨発行権を持つ日銀がいくらでもそれを買い取ることができます。この政府の負債は、政府と日銀との間で、連結決算によりチャラにできます。おまけに日本は世界一のお金持ち国家なのですね。倹約の必要などまったくないのです。こういう簡単な事実をマスコミは国民に伝えず、財務省の代弁者を買って出ています。自民党の有力政治家もすっかり騙されている始末です。そこに橋下徹のような破壊主義者がつけ込んでいるのです。世も末とはまことにこのことです。
岡部さんとほとんど同じような考えを私もブログに書いたことがありますので、ご参考までに。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/d88685ce9a47d49c4edf040b19558e6a
また、一票の格差を違憲とする司法判断も、地方の事情を考えない平等原理主義であり、これも間違っていると思います。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/130814b7041b2847b8be69d676d9d488
小浜先生。コメントありがとうございます。
小浜先生の仰る通り、我が国では20世紀末より倹約精神を悪用した「改革」が氾濫してしまっています。
しかし、先日の大阪市解体住民投票否決でそれに一定に歯止めをかけることに成功したのではと、一抹の希望を感じていますが、とはいえ、そういった暴論が未だ堂々と議論されいる国会と政治家の様子は政治劣化していると言わざるを得ません。
いかにして政治の質を上げるか、これは我が国における最大の課題と言って良いでしょう。
私としては国家とはなにか、思想とはなにか、祖国とはなにかこういったことを討議し、考える場、私塾が必要でないかと考えていたりします。とはいえ、国が堂々と文系学部を廃止する時代ですので、実現は難しいかもしれません。
記事拝読しました。法匪とさえ言える司直による蛮行、小浜先生の意見に全面的に賛同します。