明石工作の開始とその目的
明石がサンクトペテルブルクに赴任してからしばらくは人脈作りと語学の勉強をしていきます。この時、民間人としてサンクトペテルブルクの大学に留学していた留学生の上田仙太郎(後、外務省一等書記官、大使館参事官)が明石の助手として大学内での活動家の情報収集(ヒューミント)などを行っていきました。
明石はヒューミントだけでなく公開情報(オシント)も重視していました。塩田武夫少佐を助手として欧州各国の新聞雑誌を精査して国際情勢や世論を考察していました。明石がロシアでの活動を記録した復命書『落花流水』において明石が情報源とした新聞雑誌を紹介しています。ロシアの出版物だけでなく、情報の精度を高めるためにイギリス、ドイツ、フランスの新聞雑誌からロシアの情報を取得し、検証をしていたようです。
ちなみに、この当時のロシアは情報の扱いに対して鈍感で国内の出版物に対してそれほど検閲をすることもなく、将校の殊勲や軍隊の動員、輸送状況を掲載しており、ご丁寧なことに極東派遣部隊の配置と派遣予定部隊の告知までしている始末でした。
明石は自身が得た知見を本国に逐一報告していきました。これも重要な任務ですが、明石工作の真髄は情報収集ではありません。
すなわち、ロシア国内のレーニンを始めとするロシア国内の共産主義者や自由主義者たち左右の革命家と穏健な活動家、そしてロシアに支配されている被支配民族の民族主義者たちの独立運動を助けることでした。
何故なら、前述したようにロシアの西方(東欧、バルカン半島)で揉め事が起こると東方の日本に構っていられなくなります。つまり、ロシア西方の地域で揉め事を起こし、ロシアが日本との戦争に注力できないようにすることが目的なのです。
例えば、ロシア国内でテロやストライキを含む革命運動が起きれば治安維持のための部隊が必要になり、物資の製造や満洲への輸送にも支障をきたします。また、東欧で独立運動が起きればそれを鎮圧するために軍隊を派遣しなくてはいけません。つまり、これらの問題ごとを起こせば起こすほど、ロシアの兵力が日本に向けられなくなり、圧倒的な軍事力の差を縮めることが出来るようになるのです。
人民に愛される皇帝
しかし、ロシア国内で騒乱を起こせるかというと、簡単には進みません。何故ならこの当時のロシア国内は基本的に穏やかなものでした。少なくとも後のロシア革命の時のような動乱とは程遠い状況です。
一般的に帝政ロシアはツァーリズムによる人民への圧政と言われます。まったくもってその通りなのですが、実は当時はロシアの人民の多くは反感を持っていませんでした。
(注釈:ロシアでは貴族と農奴・労働者での差別があり同じ人間という扱いではありませんでした。よって国民国家としての国民ではないので、人民と表記します)
これは現代の発展途上国などでも言えることなのですが、教育がされず識字率が低い社会だと、人民は社会で起きていることを正確に理解できないのです(ロシアの教育水準については第三章を参照)。つまり、搾取されることがごく当たり前のことであって、それに疑問を持たなくなるのです。日露が開戦した当初、ロシアの農村部の多くでは戦争への参加は愛国心の発露であるとして積極的に戦争に協力しました。
反ツァーリズムというものはまだまだ少数派で、むしろ皇帝はロシア正教の守護者にして国父として人民から敬愛されていました。搾取されていると不平を持ったとしても、それは皇帝のせいでなく、取り巻きの官僚たちが悪いと思われていました。
そのような状況でしたので、ロシア本国で反政府運動を進めるにはリスクが高く、上手くいくとは限りませんでした。そこで明石はロシアの支配に対して強い反感を持つ民族主義者たちとの協力関係を模索していきます。
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