①我が国の憲法や憲法草案は、時代を下るごとに条文の数と文章量が増えて、やたら細かくなってきています。じっさいに条文の内容を見ると、モノによってはほとんど法律の領域にまで踏み込んでしまっています。これは、時代の多様化した要請に押し流されているために憲法というものの本質を見失っている証拠ではないでしょうか。
参考までに。十七条憲法は17条。御成敗式目は51条、武家諸法度および禁中ならびに公家諸法度は計36条、帝国憲法は76条、日本国憲法は103条、自民党改正草案は110条、そして産経版「国民の憲法」は117条。
憲法は法律ではなく、法律を整備していくにあたっての基本的な指針ですから、なるべく簡素を旨とすべし、です。細かいところに踏み込むことをあえて避け、抽象性を担保しておくことによって、かえって、あらゆる社会問題を包括でき、しかも条文をタテにとった悪用・濫用を避けることができます。世の中には、私的な争い、公権力への身勝手な異議申し立てなどに、すぐ憲法を葵の印籠のように持ち出す向きが後を絶たないようですが、そういうことは法律のレベルでやるべきことです。憲法はルール細目ではないのです。
憲法が忙しく駆り出されることがないように、その条文は一定の抽象レベルを保つべきであって、またその方が時間に耐えるものができるはずです。細かく書き込めば書き込むほど、すぐに時代に合わなくなり、その権威が軽いものとなってしまいます。また、簡素にすることによって、重複や不整合を避けることができます。現行憲法は、特に権利規定の部分などにとても重複が多いですね。
②自民党案も産経案も、「家族の尊重」といった道徳的な規定を盛り込んでいますが、人間の内面に踏み込んで方向づけを強いるような「道義」を主軸に置くことは、近代法の精神とまったく合いません。これは、帝国憲法から見ても退歩であって、まして今の国民の普遍的な同意を得られるはずがありません。家族の解体を恐れる旧世代保守主義者たちの危機意識が露出したものでしょうが、もともとこういう問題は、必要と感じた者が日々のしつけや教育などを通じて保守していけばよい話です。
ちなみに、自民党案や産経案が「家族の尊重」を謳っているのと同じように、しかし逆の意味で、現行憲法が「個人の尊重」(13条)とか、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて」とか「両性の本質的平等」(いずれも24条)などと謳っているのも、人間の内面精神のあり方や私的生活への道徳的な介入であり、くだらない規定です。
③憲法改正の起草にかかわる人たちは、まずは今の国民意識の平均的な部分を尊重して現実的な改正案を提示し、それを一歩一歩理想に近づけていけばよい、というようなことを言います。いかにも説得力のある主張のように思えますが、これは違うと思います。理想と現実という対立項を、時間軸に転嫁して、「いつかは」と期待することは、まったくの幻想です。「一歩一歩」などという論理は永遠に実現しないでしょう。
ですから、この二つの側面を同時に一つの言語で果たそうなどと欲張りなことを考えずに、政治的な対応としては、必要最小限の改正で済ませ、いっぽうで、思想理念としての「憲法」は、現行憲法とはまったく異なる新しい構成によるもの(帝国憲法の改正というかたちでもいいと思います)を、専門家、思想家がいま提示する。こうした同時進行が要請されているので、前者からだんだん後者へ、とか、後者をただちに実用可能なものとして構想するなどと考える必要はありません。
④自民党版も産経版も 「安全保障」や「国防」という章をわざわざ設けたり、「軍」「国防軍」を謳ったりしていますが、これは要らざる配慮です。もしそんなことをすれば、同時に「外交」とか「防災」とか「国民経済」とか「社会福祉」とか「教育」などという章も設けなくてはバランスを欠くでしょう。そうするとますます煩雑なものになります。先に九条2項の削除を提案したのと同じようにネガティブリスト方式で行けば、かえって軍隊の存在は自明視されることになり、暗黙の裡に承認されるわけです。何にも触れないのはどうも、と心配するなら、たとえば「内閣」の章で「内閣総理大臣は軍の総司令官を兼ねる」というような形でさりげなく謳っておけばよいのです。
⑤そもそも我が国に憲法は必要なのでしょうか。皇室がしっかりしていて、法律が整っており、国民の間に基本的な人倫の習慣が根付いていれば、別に憲法が絶対必要と考えることもないのではないでしょうか。ご承知のように、イギリスには成文憲法がありません。でも何とかやっています。「よき慣習」の力でしょうね。
おそらく我が国の場合、国民としての同一性がきわめて高く、長いあいだ皇室が権威の象徴として機能してきたので、憲法なしでやっていくのが究極の理想だろうと思います。しかしまあ、そう言ってしまっては身も蓋もないし、今後ますます複雑多様化していく社会に対して、国体の共通確認なしに国の秩序が維持できるかという不安もありますので、君主制の限界を補完するものとしての近代立憲制度を固めておいたほうがいいだろうと考えられます。
⑥ではそもそも憲法とは何か。欧米語の「constitution」は、「構成」という意味ですが、この言葉にはまた、「体質」とか「気質」といったニュアンスがあります。
また日本語の「憲法」という言葉には、「公平であること、公正であること」という意味があります。両者を合わせ考えると、「憲法とは、国民に福利と安寧をもたらすための国家統治の基本的な構成を謳ったものであり、その根幹にあるのは、法治国家が旨とすべき公共精神である」ということになりましょうか。
なお、これまで「憲法とは国家権力が国民に対して横暴な振る舞いをしないようにするための、国家権力への命令である」という理解が幅を利かせてきましたが、私はこの憲法理解を採りません。
これはいわゆる「立憲主義」という名のもとに、現在でも当然のように考えられています。しかし、こうした反権力リベラル的な把握は、第一に、「立憲制」という本来の概念を捻じ曲げた僭称であること、第二に、世界の憲法はみな国体や政体のあり方の記述を主としており、必ずしも権利規定を前面に押し出しているわけではないこと、第三に、憲法は、権利の濫用を防ぎ、国家公民としての義務と責任を自覚させる機能も持っていること、などからみて、たいへん偏った把握であると思います。
いわゆる「立憲主義」的な憲法理解は、マグナ・カルタに始まる西欧の憲政史上の事実を絶対視するところから出てきた説で、日本には日本の伝統に根差した独自の憲法観があってよいし、また欧米でさえ、こんな一方的な憲法観によって憲法が編まれているわけではありません。
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