近代を超克する(25)対リベラリズム[8]フロムとバーリン

「近代の超克」特集ページ

 自由には、積極的なものと消極的なものがあります。前者の肯定者として、米国の精神分析学者で社会思想家であるフロム(Erich Fromm, 1900~1980)がいます。また、後者の肯定者として、イギリスの政治哲学者アイザィア・バーリン(Isaiah Berlin, 1909~1997)がいます。

フロムの自由

 フロムの自由を知るには、『自由からの逃走』と『人間における自由』が挙げられます。
 彼は、自由を消極的な「・・・からの自由」と積極的な「・・・への自由」に分けています。自由は徳と幸福の必須条件だと考えられており、フロムは積極的な自由の完全な実現へと進んでいきます。
 フロムの言う積極的な自由とは、個人的自我の実現であり、個人の諸能力の表現であり、個人の独自性の肯定であり、全的統一的な個性の自発的な行為のことです。つまり、人間の可能性を実現する自由であり、人間存在の法則により真の人間性を充実する自由だとされています。
 フロムにとって人類の歴史は、個性化の成長の歴史であり、自由の増大していく歴史なのです。この自由は、伝統をかなぐり捨て、人間が自身より高いものに従うことを拒みます。自由が実現した社会とは、個人主義が実現しデモクラシーが発展しており、個人が自己の外部に従属せず、自我の特殊性によって生活の決定に参加する社会のことです。それが妥協無く実現できたとき、病人と異常人の危険性を除き、社会的衝動の根本的な危険性が消滅すると考えられています。
フロムは、自由の成長過程が悪循環にはならず、人間は孤独にもならず、懐疑に陥ることもなく、独立していながら人類全体を構成する部分として存在できると信じているのです。

フロムの検討

 以上のフロムの見解を考慮し、フロムの自由について考えてみます。
 フロムの述べている自由は、中味を欠いた抽象的なお題目です。具体性を示さないその手法によって、いくらでも中身の無い空虚な綺麗事をわめき散らすことが可能になっています。
 つまり、フロムは自身の肯定する自由の内容について、中味を伴ったものとして語れていないのです。語ってしまうと、それに対する反論がなされてしまうため、自由の肯定が不可能になってしまうからです。フロムの著作に具体的な自由の内実がない、そのことの異常さに気づいた者は、フロムの自由に賛同することができません。この異常さに気づかない者だけが、フロムの自由に賛同できてしまうのです。
 仮にフロムの積極的自由を目指した場合、社会は壊滅的で致命的な被害を受けます。なぜなら、自身の外部を認めず、伝統を投げ捨ててしまうような自我は、自身の欲望を撒き散らすことに終始するからです。歴史の縦軸(過去→現在→未来)と横軸(私の周りの人たち)を排除するとき、人間は、自己の欲望を独善的に振りかざします。人間存在の法則により真の人間性を充実する自由とは、そんなものなのです。

バーリンの自由

 バーリンの『自由論』における用語法では、積極的自由と消極的自由という二つの自由の概念が次のようにまとめられます。

【「積極的(positiveな)」自由の観念】
・~への自由( freedom to )
・誰が主人であるかという問いに答えるもの
・自分自身の主人でありたいという個人の側の願望からくるもの
・信奉者は、権威をわが手中にしようとする

【「消極的(negativeな)」自由の観念】
・~からの自由( liberty from )
・私はどれだけの領域で主人であるかという問いに答えるもの
・ある人がその人のしたいことをすることのできる範囲のこと
・信奉者は、権威そのものを抑圧しようとする

 その上で、自由の基本的な意味は消極的自由であり、自由の擁護は消極的な目標にあると述べられています。消極的自由は、積極的自由よりも、真実で人間味がある理想だというのです。なぜなら人間の目標は多数であり、そのすべてが同一単位で測りうるものでなく、相互にたえず競いあっているという事実があるからだというのです。
 消極的自由は、妨害の除去や隷属の抑制を目的とし、行為する機会や行動の可能性を示します。消極的自由の信奉者は、権威そのものを抑圧しようとします。

バーリンの検討

 以上が、バーリンの考える自由ですが、いくつかの点で間違っています。
 例えば、権威は調整が必要なものであり、状況や条件によって、廃止することも、制限することも、抑圧することも、強化することも、保全することも、拡大することも必要になります。単に権威を抑圧しようとすれば、無秩序を招くか、反動で暴走するかのどちらかになるおそれがあります。
 また、バーリンの『自由論』の構造上、消極的自由そのものに反する自由は認められていません。そのため、その自由の判定は、消極的自由の信奉者に委ねられます。それを自由とするか、それを自由に対する抑圧として認めないかは、結局、消極的自由の信奉者が決めることになります。他の価値観に対して、それを無知や野蛮や残酷と呼ぶことで正当化することによってです。


※第10回「近代を超克する(26)対リベラリズム[9]ハイエク」はコチラ
※本連載の一覧はコチラをご覧ください。

西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
ウェブサイト「日本式論(http://nihonshiki.sakura.ne.jp/)」を運営中です。

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