『夢幻典』[玖式] 蛍光論
- 2017/1/19
- 思想, 歴史
- feature7, yume
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解説
ドストエフスキーの『悪霊』で、登場人物の一人であるキリーロフは次のようなセリフを吐いています。
「いいことです。赤ん坊の頭をかち割っても、いいことなんです。かち割らなくてもいいことなんです。なにもかもがいいことなんです。なにもかも。なにもかもがいいとわかっている人にとっては、それだけでもう、すべていいことずくめなんです。みんなが、これでいいとわかるようになれば、みんなにとって何もかもよくなるんです、でも、これでいいってことがわからないうちは、みんなにとってよくないんですよ。思想といっても、それだけのこと、それだけのことで、それよりほかに、何も、どんな思想もないんですよ!」
この種の問題は、『罪と罰』のラスコーリニコフや『カラマーゾフの兄弟』のイワンにも感じることができます。イワンは「すべては許されている」ことを公式だと見なしています。
この『蛍光論』で展開されている思想は、それが公式であってはならないという思想ではなく、これを公式とした上での思想になります。この世界の根源的なあり方の故に、確かに、すべては許されているからです。もう少し正確に言うと、善悪に関わらず、可能な出来事は実行し得るということです。それを認めた上で、何を為すかが、その根拠の底が抜けているにも関わらず、論じられているのです。
なぜなら、その根拠の底がどうあれ、何かを為さざるを得ないからです。「何もしない」ということすら、「何もしない」ことを選んだということになってしまうからです。選んだことの根拠の強弱は重要ですが、それ以前に、我々は何かを選ばなければならないのです。なぜか、世界がそうなっているのですから。
その上で、ある特殊な考え方が示されています。この『蛍光論』では、直接的な表現はありませんが、小泉八雲の作品の情景などが下地になって展開されています。例えば、『出雲再訪』には次のような文章があります。
日々の暮らしにこと欠かず、自然が万人に与えてくれる素朴な喜びに満ち足りて、私欲をすて家族知人と仲良くやってゆければ、それで十分、もう望むことはないという心構えだ。
これは素晴らしい文章です。そうは思いませんか?
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