ポーランド現代史の闇
- 2015/6/5
- 歴史
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ドイツでは発禁処分
一九九三年に出されたこの本が語る戦後ポーランドに残留したドイツ人たち、特にドイツ民間人の運命は悲惨であった。「共産化」した戦後ポーランドには多くの収容所が作られ、それらの収容所においてドイツ人の女性、子供、老人、そして赤ん坊までもが残酷な仕打ちを受け、多くが殺害されたというのである。
サック氏は、こうした戦後ポーランドの隠されていた歴史を、ヨーロッパでの記録の調査と多くのドイツ人、ポーランド人、そしてユダヤ人への聞き取りによって調査した。そして、特にそうしたポーランドに残留したドイツ人たちを収容した収容所の多くがユダヤ人によって運営、管理されていたという驚くべき事実を詳細に記述したのである。
すなわち、多くの女性や子供、老人、それに赤ん坊までが、ただドイツ人であるというだけの理由で、それらの収容所において暴力に曝され、命を落としていったという。戦後ポーランドの歴史の闇に、ユダヤ人であるサック氏が光を当てたのである。
今日までサック氏のこの本は、わが国では翻訳が出版されず、日本人の間ではほとんど知られていない。しかし、欧米では一九九三年にこの本が出版されると大きな反響が起き、ベストセラーになった。
アメリカでは、CBSテレビのドキュメンタリー「60ミニッツ」で取り上げられた他、ニューヨーク・タイムズや『ニューズウィーク』がこの本を取り上げるなどして、大きな反響と論争を生んだ。
以下に引用するのは、この本に言及した『ニューズウィーク』誌(英語版)の記事の一節である。
〈ユダヤ系アメリカ人であるジャーナリストのジョン・サックは、彼の最近の著書『目には目を』のなかで、新しく生まれた共産主義体制によって集められ、結果的にナチスへの復讐を行わされたユダヤ系ポーランド人たちについて語り、激しい論争を巻き起こした。
サックによれば、彼ら(ユダヤ系ポーランド人)は自分たちの囚人が彼らが犯したとされる罪状を認めれば殴り、また認めなければ認めないで殴ったと言う〉(一九九五年五月八日号・二十三ページ。西岡訳)
『ニューズウィーク日本版』(一九九五年五月十七日号)の「戦後50年特集語られざるドイツの悲劇」では、以下のように訳されている。
〈戦後ポーランドの共産主義政府は、ナチスに対する復讐を目的として、ユダヤ系国民を収容所に招集したというのだ。サックによると、彼らは収容者にナチスの「罪」を着せ、罪を認めれば罰として暴行を加え、認めなければ拷問に及んだ〉
さらし台につながれる
驚くべきは、ドイツにおける反応である。ドイツでは、この本は事実上の発禁処分になったという。
戦後ポーランドで起きたドイツ民間人に対する迫害はもちろん、全てが「ユダヤ人」が関与した事例であったわけではない。ユダヤ系ではないポーランド人も、多数こうしたドイツ人迫害に関与していた。
たとえば、最近出版されたイアン・ブルマ氏の著作にはこんな記述がある。
〈リプッサ・フリッツ・クロツコウは自宅の絨毯をポーランド人市長の妻に売ろうとしていた。市長の妻はそれまで何度か彼女に、はした金を払って、貴重な品々を買っていた。彼女は民兵にその現場を押さえられた。ドイツ人が所有品を売却することは許されていない。
リプッサはこの罪のため、人びとが彼女の顔に唾をかけられるように、さらし台につながれた。だが、「ポーランド人はおおむね咳払いをするか、地面に唾を吐くだけで、ドイツ人の方は道路の反対側へ渡った」と彼女は言う。
ドイツ人に対する暴力の最悪の事例が、民兵によって犯されたのは疑いない。彼らは強制収容所を運営し、収容者を拷問、無作為に殺し、人びとをさらし台にかけたが、時には何の理由もなくそうした。急いで編成されたため、民兵はもっとも腐敗したポーランド人──たいていは非常に若い犯罪者──の中から新兵の多くを採用した。
ラムズドルフ収容所司令官のチェロサ・ギンボルスキはまだ十八歳だった。八百人の子どもを含め、六千人以上が彼の指揮下で殺された〉(イアン・ブルマ著、三浦元博・軍司泰史訳、『廃墟の零年1945』白水社・二〇一五年、百十二ページ)
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