はじめてASREADに書かせていただく後藤と申します。私は学習塾をやりつつ文筆の修練をしている身です。ASREADの執筆陣はみなさん才気に溢れていて、私といたしましては尻込みしてしまうところもあるのですが、足りない才を根性で補っていると自負しております。どうか本稿を一読くだされば幸いです。
そういった次第で、本日は日本国憲法の話をさせていただきたいと思います。
議論の本位を定めること
憲法と聞けば、皆さんはどのような問題を思い浮かべるでしょうか。巷で「憲法の問題」と言えば、すぐに九条を連想する人が多いように思われます。確かにこの九条……とりわけ二項は凄まじい文言です。特に、集団的自衛権の事が話題になっている昨今、憲法問題とは九条の話題だということが半ば大前提とされてしまっているように見受けられます。
正直に言えば、私自身は九条の文言が大嫌いですし、集団的自衛権の問題は日本の国において大変重要な課題であると思います。
しかし、憲法問題における意識があまりに九条の議論に終始してしまうかくのごとき状態はいかがなものでしょうか。なんと言っても日本国憲法は、前文、一章~十一章(1条から103条)まであるのです。その全容を概観せずに細部末端のみ取り上げる姿勢は、その細部における議論すら空転させてしまうのではないでしょうか。
このことを具体的にいえば、九条ばかりにとらわれて、日本国憲法の全体に張り巡らされた純粋近代主義的な『理念』が無批判に享受されてきてしまっていることが甚だ問題だということであります。また、日本国憲法の持つ理念……根幹を論ぜずして九条だけを論じても、ただの罵り合いに終わるのみではないでしょうか。
或いは、ここに九条の問題にかんしてだけは同じ意見である者達があったとしても、その憲法理念に対する根本が違えば、それは立場の違う者として認識せらるるべきであるはずです。それを九条問題に特化した雑漠たる立場の棲み分けのみで議論を始めてしまっては、議論の本位を定める事は国が滅ぶるまでないでしょう。
前文と国民主権
ともすれば、「憲法の問題は九条だけではない」と主張すると、「そうだ。前文がマズいのだ」と応じられる場合が多々あります。そして、この有名な一説を引用するのです。
【――平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(日本国憲法・前文)】
確かに、これも甘ったれた文言です。各国の公正と信義が相容れないから、最終的に戦争が起きたりテロルをやるのではありませんか。また、この前文に適合する形で九条が導き出されているのも確かでしょう。
しかし、前文でほんとうに着目すべき所はこの部分であります。
【――ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。(日本国憲法・前文)】
つまり、『国民主権』であります。日本国憲法において最も問題視されるべきはこのことなのです。
誤解しないでいただきたいのは、私は何も「日本の主権は天皇にあるのだ! 国民に主権があるなど不敬である!」などという筋肉質な議論を展開したいわけではありません。
というのも、この国民主権にある『国民』という言葉を丁寧にとれば、ほとんど「ここに国があります」と言っているに過ぎなくなるということもあるからです。『国民』という言葉を丁寧にとるというのはつまり、『日本の国の民』と『天皇』はイコールであるという日本文化圏における歴史的常識に基づいて解釈するということです。さすれば、国民主権と天皇主権はイコールであるという事も確認されるはずなのです。
これは別にキレイ事で言っているわけではなくて、元々「主権」という有害なる言葉が、「国家の最高独立性」という対外的な意味でのみ必要である事を鑑みれば、国民主権と天皇主権を分けて考える必要は一切ないでしょう。もっと言えば、「主権」は日本という国家の内にありさえすればよいのであって、排外的でありさえすれば良いのであります。
しかし、日本国憲法の全体で前提とされている『国民主権』はそうした意味で使われていないし、明らかに別の文脈をもって使われているのです。
コメント
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日本国憲法に問題があるという認識はもっていたものの、ここまで根深いゆがみを抱えているとはついぞ気がつきませんでした。
よい記事でした。