山田方谷を知っていますか? ―日本の偉大な先人たち―
- 2014/6/20
- 思想
- 91 comments
人類史上には有名な人たちがたくさんいますが、その偉大さにも関わらず、なぜか知名度がそれほどない人物もたくさんいます。知名度が伴わない人の代表例というのもおかしな話だとは思いますが、日本史上においては、山田方谷(やまだ ほうこく、1805~1877)の名を挙げることができます。
現在、岡山県立博物館では、6月29日まで平成二十六年度特別展「山田方谷」が開催されています。ちょっと行って来たので、山田方谷を少しばかりご紹介いたします。
山田方谷って誰ですか?
山田方谷は、江戸時代後期に備中松山藩領(現在の岡山県高梁市)に生まれました。方谷の家系は、もとは武士の家柄でしたが、曽祖父の時代に財産を失ったため農業を営んでいました。
山田家の再興のため、方谷は厳しく育てられ、五歳のときに儒学者の塾へ入っています。十四歳のときに母を亡くし、翌年には父も亡くした方谷は、家業を継いで家計を支えることになります。それでも学問に励んだ方谷は、二十一歳のときに松山藩主に優遇されて藩校への出席も許されています。三度の京都遊学をし、江戸の佐藤一斎の塾へも入門しています。ライバルの佐久間象山と激論し合い、方谷が象山を論破することが多かったそうです。方谷は儒学のうち、朱子学と陽明学の両方を学んでいます。方谷は書幅に、儒学における朱子学と陽明学はどちらも一箇の仁を目指していると記しています。
松山藩主に板倉勝静が就任すると、方谷は元締役(現在の財務大臣)として藩政の中心に抜擢されました。勝静が老中に就任すると、顧問となって幕政にも携わっています。
山田方谷の藩政政策
山田方谷の経歴を眺めただけでは、その偉大さはあまり見えてきません。そこで、方谷が藩政で行った政策を具体的に見ていきましょう。
(1)財政再建
方谷が元締役に就任した当時、松山藩の借金は10万両(現在のお金で約300億円)でした。ほとんど破綻状態です。そこで方谷は大坂商人と交渉し、藩の現状を正直に伝えた上で債権計画を提示し、利子の免除と返済期限50年延期に成功しています。百戦錬磨の大坂商人を相手に、この要求を認めさせるとは、その時点で只者ではありません。
結論を言うと、方谷の政策によって10年を待たずに10万両の借金を完済しました。それどころか、さらに10万両の蓄財にまで成功しています。褒め言葉ですが、化け物ですね。
(2)上下節約
方谷は上級武士にも質素倹約を実施させ、賄賂を禁止しました。恨みを抱かれないように自身の家計を公開し、みずからは質素な生活を送っていました。
(3)藩札刷新
発行しすぎたことにより下落した藩札を三年かけて回収し、公衆の面前で燃やすというパフォーマンスを実施しています。その後、新しい藩札を発行し、産業のための資金として領民に貸し、生産物を納付させています。貨幣経済が信用に基づいていることを見抜き、それを政策に用いているのです。驚くべき洞察力です。
(4)産業振興
米以外の一切の収益を管掌し、殖産興業を推進しました。
当時は先端部分が平板な木製の鍬(くわ)が多かったのですが、備中の鉄生産に力を入れ、先端部分を爪タイプに改良した鉄製の備中鍬を生産します。備中鍬は江戸で販売されて大ヒットしています。
他にも、タバコ・茶・和紙・柚餅子(ゆべし)などの特産品を開発、銅山経営の実施、役立つ植物を植えさせるなどの農業指導まで行っています。農業では自身の経験を活かし、農地への肥料の足し方などをきめ細やかに指導しています。もはや何でもありです。
1
2コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。