今回はイギリスの哲学者ミル(John Stuart Mill, 1806~1873)の『代議制統治論』と、アメリカの哲学者ジョン・デューイ(John Dewey, 1859~1952)の『民主主義と教育』を参照していきます。
ミルの民主的統治
ミルは民主的統治について、実行可能で望ましい事情のもとで、直接および将来にわたり最大量の有益な結果をともなう政治体だと評価しています。民主政治の観念は、平等に代表された全国民による全国民の統治だと説明されています。民主主義においては、少数諸派が適切に代表されるべきことをミルは説いています。
また、民主政治は社会的地位に対する尊敬を破壊するため、人間関係における敬意の精神に有利ではないと考えられています。個人的な優越に対する尊敬が、標準に達しない恐れがあると語られています。
ミルの代議制統治
ミルの言う代議制統治とは、国民の全体あるいは多数者が、定期的に選挙された代表者を通じて、究極的支配権力を行使することです。彼は代議制統治のなかに、もっとも完全な政治体の理想的な型を認識しています。その理由は、それなりの規模の共同社会においては、公共の業務のうちの若干の部分にしか、すべての人が自分で参加することはできないからです。
ミルは、代議制統治が永続するための三つの根本条件を挙げています。
(1)国民が、すすんで代議制統治を受け入れようとしている。
(2)国民が、代議制統治の保持に必要なことを行う意志と能力を持っている。
(3)国民が、代議制統治が彼らに課す義務を履行し、職務を果たす意志と能力を持っている。
代議制統治における二つの危険として、民衆世論における知性の低さと、多数者側が同一階級から構成されている場合の階級立法が挙げられています。
ミルの共産主義
ちなみに共産主義については、人類が他人よりも自分を、遠い人々より近い人々を好むということがなくなれば、実現可能だと述べています。そして、それは唯一擁護できる社会形態だと考えられています。彼は普遍的利己主義を信じないため、共産主義が人類のエリートのあいだで実現可能であり、残りの人々のあいだでもそうなりうると言うのです。ちなみに、ミルの述べている共産主義は、マルクス主義ではありません。ミルは、同じロンドンに住んでいたマルクス(1818~1883)を知りませんでした。ここでの共産主義は、オーエン(1771~1858)やルイ・ブラン(1811~1882)の社会主義のことであり、土地や資本などの生産手段を社会の共有財産として、生産物および労働を各人に平等に分配しようとする思想を意味しています。
ミルの考えの検討
全体的にミルの議論は雑であり、論理の筋が通っていないところが見られます。理想的に最良の統治形態として、民衆的統治を唯一のものとして挙げていますが、その理由は不明瞭です。社会主義や共産主義の理想についても、未熟な人間観察の妄想論に過ぎません。
代議制統治についての説明も不十分です。示されている根本条件についても、代議制統治に関わらず、他の統治形態にも当てはまることにすぎません。ただし、代議制の危険性については有益な指摘であり、考慮すべき事柄です。
少数諸派が適切に代表されるということは、民主主義がうまく行くための条件ですが、多数決という民主主義の本質によって阻害されてしまいます。民主主義は、その本質によって少数派を排除し自滅します。民衆的統治が、表面上だけでもうまく運営されているように見えるためには、民主主義以外から、民主主義に反する要素を取り入れるしかないのです。
ミルは、民主的国民は教育ある少数者を選ぶと述べていますが、これは疑わしい意見です。民主的国民は、優れた人物を引きずり落とすことが多いものなのです。彼は民主政治においても、階級統治と同じ害悪を持つことを指摘しています。これに関しては、その通りです。
民主政治が敬意や尊敬を破壊することを、ミルは善の部分として述べていますが、愚かとしか言いようがありません。優越さへの尊敬が標準に達しない社会は、優秀な人物の引きずり下ろしや、福祉のただ乗りが横行し、自滅して行くからです。
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