日本国憲法の諸問題 ー自由についての疑念ー

基本的人権尊重主義と国民主権こそ、日本国憲法のガンである

前節で示した、前文と三章における『基本的人権の尊重』と『国民主権(人民主権)』の文脈を、今日、否定的に言う人はほとんどいないように思われます。それは九条を否定して改憲を主張する者であっても、ほとんど同じでしょう。

しかし、日本国憲法におけるほんとうの問題は、上記の「基本的人権の尊重と国民主権(人民主権)」の文脈にあるのです。これを言い換えて、「自由と民主主義(リベラル・デモクラシー)の文脈」としても良いでしょう。

誤解してほしくないのですが、私には「人間」を尊重する用意はあるのです。ただ、「人権」を「国民主権」の根拠に据えるという仕方がインチキだと申したいだけなのであります。それは、先に申し上げた「国民不在の国民主権」が、「人民主権」とか「平民主権」とか「大衆主権」などといったシロモノとすり替えて提示される巧妙なレトリックなのです。

また、それは近代主義をごく純粋化して無批判に引き受けようとする姿勢でもあります。
日本国憲法には、「人間諸個人の自由な選択」と、「人間諸個人の選択による民主主義で導き出された公共の福祉」が均衡しうるものであるという、人間性礼賛とか人間性楽観ともいうべきヒューマニズムが赤裸々に横たわっているのです。
これは、始原状態を想定した、社会契約の世界観が参照されていると分析するのが妥当でしょう。そうした社会契約の世界観は、ホッブズ流に君主へ主権を委託しようと、ルソー流に人民の一般意志に主権を想おうと、歴史的流れを持つかくも複雑な国家……文化圏といったものをとらえるには単調かつ画一的すぎなのです。
それでも尚、確かに国家は一種の社会契約であると認めても良いでしょう。近代主義が、社会にただならぬ恩恵を与えてくれている事も認めないわけにもいかない。ただ、そうした社会の一側面を切り取って観察する仕様は、この膨大なる現実世界を包括的に捉えられていないのではないか、という懐疑の姿勢を持って迎えられなければならないはずなのです。

例えば、確かに、個人の自由な選択は大事でしょう。尊重せらるるべきです。しかしそもそも、個人の自由な選択とは一体何なのでしょうか。個人は、環境と時間の流れのなかで行動し選択するわけであるから、どこからが純粋な個人から発した行動で、どこからが環境に支配された行動であるかを区分けする事は実はできません。何故なら、主体としての個人と、個人に内面化された客体は、不可分に存在しているからであります。ある場面において完全に自由に振る舞おうとするとき、反対に自由でない振る舞いがありそれと照らし合わせながら一見自由に行動するという規範の軸からは逃れられる筈がないではありませんか。
また、そういった諸個人の選択による民主主義で導き出された公共の福祉が、その具体的な運用に際して(平均的にであっても)ベターなものである為には、人間が公共の福祉なるものを至極明瞭に数値的に算出することが出来るという前提がなければなりません。しかし、公共の福祉の基準は「倫理」に関わるものであるはずだから、数値にて明瞭かつ合理的に算出できると考える方が狂っているのです。民主主義は抽象的な段階であれば平均的にベターを導いても、具体的運用にかんしてはことごとく最悪の結論を出すという事もありうるのであります。

こうした自由と民主主義という近代主義への懐疑が僅かでもあれば、またそうでなくても自分が生きて来た間で時間の経過とともに学習するという経験があるなら、そのような人間の集まりである国の、歴史的経緯を統治に反映させようという姿勢があって当然のことですが、日本国憲法にはそれがほとんどないのです。それどころか、自由と民主主義(人権を根拠とした国民主権)を純粋化して推し進めることを強く推奨しているのがこの憲法である、と言って貶し過ぎではないでしょう。

ひとたび大衆の手に渡った国家を救う手立ては、基本的にはない

以上の問題を把握すれば、そうした人権を根拠にした国民主権(自由と民主主義)という人間楽観の世界観が、「政府の権限の剥奪」を好む大衆に対し絶好の根拠を与えているという事も理解できるはずです。何故なら、人間の権利としての自由が実は良く分かられていない中で「自由(人間の権利)」を求めようとすれば、それは「より政府に制限されない」という事こそ「進歩の光の先である」と考える他なくなってしまうからです。
また、それは第14条にも明確に現れていますが、そうした中では「政府よって与えられる特権的なもの」を排撃しようとする欲求が赤裸々に現れてきます。勿論、高貴なる階級としての特権が認められる余地はなくなってしまっているし、それだけではなく昨今では、「経済的な既得権益」すらも特権として排撃されてきているわけです。

こうした傾向は、「一般国民」という得体の知れない語を根拠に推し進められます。政府によって一般国民のケンリが制限されないように、政府によって特別のケンリを付与されないように……そうした事が政府への請求として「啓蒙的」に推し進められるのです。
しかし、一般国民というのは一体どんなものを言うのでしょうか。そもそも、政府による「権利の制限」と「特別な特権の付与」は、日本国民の間で画一的ではないし、画一的である必要はないのであります。例えば、既得権益既得権益とやかましい世の中ですが、日本国民のほとんどが何らかの地域や産業に属しているわけだから、あらゆる国民は何らかの既得権益(特別の権利)を授かって生きているはずです。あるいは、何らかの「特別な権利の制限」に甘んじて生きているはずなのです。つまり、一般国民などというのは誰の事でもないのです。日本国民とは特別国民の集合である、とこう捉えるほうがより現実的でしょう?

それを、一般国民などという良く分からない語を用いて、特別国民を端から糾弾し、特権や既得権益を排撃していけば、日本国民は日本国民によってすべて排撃されていってしまうでしょう。ある時には我こそは「多数派の一般国民である」と思っていても、数年後には「少数派の特別国民である」と排撃される側に陥るのです。何故なら特別国民ではない国民など実はいないからです。

それでも、そうした政府への請求を正当化する根拠としての基本的人権と国民主権の文脈は、一瞬一瞬の大衆心理としては非常に都合の良いものであると言えるでしょう。
何故なら、その時々の多数派は、政府や既得権益から権限を剥奪する事を「面白い」と思うからです。
その面白さを都合よく正当化してくれている日本国憲法の理念が、「間違っている」という風に、多数者が思うわけがないでしょう。しかも、日本国憲法は、人権を保障する為の都合の良いサービス機関であることを政府に求めているわけで、かくのごとくパンとサーカスを保障してくれている日本国憲法を大衆(多数者)が手放したいと思うはずがありません。

その証拠に、アメリカに押し付けられたはずの日本国憲法は、戦後一言一句変えられていないでしょう。それは、96条で示されている通り、その変更が多数の大衆によってでしか変更不可であるという事に起因するのです。大衆に都合の良い憲法が大衆によってでしか変更できないのなら、理論上、変更は永遠に不可でしょう。当たり前ではないですか。これは社会党や共産党や民主党のせいでも、チャイナや朝鮮のせいでも、アメリカのせいですらないのです。
とどのつまり、「日本国憲法の幼稚さは日本国民の幼稚さの反映である」と言うのが最も適切なのではないでしょうか。

→ 次ページ:「日本国憲法に立ち向かう保守論」を読む

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西部邁

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コメント

    • nao
    • 2014年 6月 19日

    日本国憲法に問題があるという認識はもっていたものの、ここまで根深いゆがみを抱えているとはついぞ気がつきませんでした。
    よい記事でした。

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