宮崎駿アニメの構造〜ちぐはぐをつなぎ合わせる「動き」〜

1)部分と全体

 宮崎駿や彼の監督作品についての文章を少し読んだだけでも分かることは、高畑勲が語るように宮崎駿の「部分を充実させていって、それの複合体によって作品を作っていく」(※注1)という創作スタイルである。つまり、作品全体の構造や流れを考えた上で細部にも気を配っているわけではなく、細部が全てであり全体はあくまで細部の集合体の結果であるのが、宮崎アニメの特徴なのだ。私個人の印象だけでも、『となりのトトロ』『魔女の宅急便』辺りから物語が分裂する傾向を感じており、特に『ハウルの動く城』は宮崎本人も「パズルのパーツはそろっているのに、うまくはまらない」(※注2)と嘆くほど、各細部が集合体として一つにまとまっていない。にも関わらず『ハウルの動く城』は、『千と千尋の神隠し』に次ぐ日本映画史上第二位の観客動員数を記録している(注3)。ということは、多くの人を惹きつける宮崎アニメの魅力は、物語のつじつまが合っているかどうかにはないといえる。ではどこに宮崎アニメの魅力の本質があるのだろうか。

 ここでは、2001年に公開された『千と千尋の神隠し』と2004年に公開された『ハウルの動く城』を取り上げる。これら最も多くの人が観た宮崎駿の監督による二作品は、続けて公開されたという時間的な連続性だけでなく、空間的にもパラレルに併走する重層構造の位置関係にあると思われる。以下ではこの二作の比較を通して、宮崎アニメの傾向の一端に迫りたいと思う。その傾向とは、作品のテーマやメッセージ、キャラクター造形、徹底した写生を通した再現性の卓越さという様々な要素の内部ではなく、細部の要素が作品間でどのように変換され使用されているのかという要素の変換自体である。それは一つの作品内部に於いても、物語の起承転結という論理では埋まらない要素間の断絶や対立を、コードのずらし(変換)によって埋めていく「つなぎ」として表れている。そしてこの「つなぎ」の部分にこそ、宮崎アニメの魅力の本質があると考える。

 具体的に、宮崎アニメの「つなぎ」を取り出すために、上記二作品の細部を平行して見ていくことにする。

2)ばらばらな空間

 『千と千尋の神隠し』で、千尋と両親が迷い込む廃墟となったテーマパークは、その無秩序さで目を引く。不規則で華美な装飾と悪趣味な色合いの塗装を施された建物のファサード、取ってつけたように張り出している数々の看板、グロテスクに盛られている食べ物の大皿、それら街並みの異様な色彩の洪水を引き立たせるような青空。全ての細部がばらばらで、統一感がない。

 また、千尋が働くことになる湯屋や、湯屋を取り仕切る湯婆婆の部屋、湯婆婆の子供の部屋、湯屋の従業員たちやそこを訪れる神々も同様である。それは、一つの空間内という一定の秩序内に、物や人がランダムに配置されているのではなく、もともとばらばらな細部(小空間)が無秩序に増殖して結果的により大きな空間になったものである。なぜそういえるのかというと、小空間ごとでキャラクターの振る舞いが異なり、ちぐはぐで一貫性がないからである。千尋は、荻野千尋という名前でいた空間ではどんくさくてもよかったが、千という名前でいる空間では嫌でも働かなければならない。ハクも、千尋と二人でいる空間では味方として接するが、湯婆婆や湯屋の従業員たちの前では冷たく振舞い、元々いた世界を暗示する龍の姿への変貌にも規則性は見られない。湯婆婆も子供である坊の前(子供部屋)では態度を豹変させる。 

 彼らのそういった変化は、上位に一本筋の通った芯が前提とされているわけではないため、それだけで観る者に違和感といっていいほどの強い印象を与える。彼らの態度の変化は、物語全体の流れという大きな秩序に回収されるものではないのだ。だから、ラストで元の世界に戻れるようになった千尋に、成長した様子は伺えない(それまでは以前よりも強くなっていたにも関わらず)。

 『ハウルの動く城』でも、ソフィーの住む町並みや祭りに集まる人々、レティーの働くカフェ、ハウルの城、城内の風呂場、ハウルの部屋といった空間は、無秩序な形と色彩に溢れている。そういった空間の中で、ハウルは特に象徴的な態度を示す。ソフィーが掃除をした風呂場で入浴をした結果、髪の色が変わってしまったことを悲嘆した彼は、ゲル化し自己の姿を失い始める。無秩序な場所では効果のあった彼の魔法は、そこに秩序がもたらされた途端、解けてしまうのだ。その後、悪趣味なほど散らかった物と色に囲まれた自室で、ハウルは何とか自己の姿を取り戻す。つまり、物語の秩序に回収されてしまうと、キャラクターという細部の要素は消えてしまうのだ。

 こういったキャラクターのいわば意外な側面は、上記の例とは逆に、物語世界に深みを与えたり、伏線となって筋を引っ張っていく役割を負わされるパターンも考えられるが、宮崎アニメは、そのような見え透いた役割など全く意に介していない。キャラクターの、時に奇妙に思える様々な側面を、そのままばらばらに描くことは、徹底した写生を旨とする宮崎らしい表現でもあり(※注4)、その目的であるリアリティの描写に成功している。

 私たちは普段、場や人に応じて態度を変える。それは極自然な反応であり、個々の態度の変化に理由はあっても、異なる態度の間には筋の通った脈絡があるわけではない。逆に言えば、縛られた筋がないからこそ、自由に態度を変えて、それぞれの物事を円滑に進めることができる。このような個が積み重なって全体となる宮崎アニメの在り方は、現実の在り方と同じものなのだ。

 ここで、ばらばらな空間が、『千と千尋の神隠し』と『ハウルの動く城』の間でどのように変換されているか見てみよう。真っ先に気づくのは、坊の部屋が「子供部屋」という共通項によってハウルの部屋に変換されているという点である。坊は体こそ母親より大きいが、そのフォルムや行動パターンは紛れもない子供であり、ハウルも外見こそ青年であるが、心をなくし成長を止めてしまった子供である。そして、子供であればあるほど、まだ自我という統一体が確立されていないばらばらな存在であり、一見その無秩序さは弱点のようであるが、だからこそどんな状況にも対応できる柔軟さを持ち合わせている。宮崎アニメが子供を描くのは、大人が失ってしまった人間の本質的なリアリティ(在り方)をそこに見ているからではないのだろうか。その帰結として、宮崎のアニメ作成方法も「部分を充実させていって、それの複合体によって作品を作っていく」というスタイルを取っているのではないだろうか。

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西部邁

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