今年、AKB48グループが結成10周年となります。秋葉原ドンキホーテの劇場で活動を始めた10年前から比べると、今日の活躍ぶりは隔絶の感でしょう。
AKB48の総合プロデューサーである秋元康氏もこの成功で、大御所となった感もありますが、正直なところ、AKB48を立ち上げた際は、「終わった感」を秋元康氏に感じていた人も多かったのではないでしょうか?
というか、「80年代の人」という印象が強かったという方が適切かもしれません。何より、90年代に秋元康氏が何をしていたかをリアルタイムでつかんでいた人も少ないでしょう。
肩書きは作詞家
秋元康氏が、肩書きは作詞家であることは皆さん、ご存知でしょうか。
元々は放送作家でしたが、その業種の限界を感じて、作詞家に転進し、さまざまな楽曲に詞を提供しながら、一方で、色々と企画を仕掛けていったわけです。
その中で、私が作詞家の秋元康氏に遭遇したのは、野猿の楽曲でした。
野猿をご存じない方もいるかもしれません。「とんねるずみなさんのおかげでした」のスタッフととんねるずで結成されたダンスグループです。「ASAYANとかの素人企画モノが売れているんだから、じゃ俺たちも!」という悪ノリ感が伝わってくる企画でした。
野猿の楽曲の作詞家は秋元康氏、作曲家は後藤次利氏、まさに、夕焼けにゃんにゃんで手を組んだ人々が90年代に再結成したといっても遜色ないスタッフ陣でした。
セールスが見込めるからこそ出来る実験
あの頃は、CDをリリースすること、そのものがビッグビジネスでした。Report.7でも取り上げましたが、90年代はCDのセールスが今と比較にならないレベルで、多少ヒットすれば、事業として経費を回収し、利益が生むことができるレベルでした。
そういう場所では、実験が行われるものです。
私は、野猿の2ndシングル「叫び」から4thシングル「Be cool!」までを3部作として位置づけています。
歌詞の詳しい分析などに関しては避けますが、都会で生まれ育ち、生計を立てている人々が、その人工的な生活に耐え切れなくなるのが、「叫び」だとすれば、3rdシングルの「Snow Blind」はその生活の中で、失っていった大切なものを思い返しながら、ただ漂う。そして、4thシングル「Be cool!」では結局、生活は続いていくんだから、群衆に紛れていればいいとニヒリズムに陥る。
手前味噌な感じもあるかもしれませんが、90年代を通じて、日本国民が陥った思想的閉塞感をそのまま表しているような3部作といえるような気もするわけです。
業界の中からもう一度現場へ
一方で、プロデューサーとしては、成功したとは言いがたい面もあります。90年代には、セガから発売されたドリームキャストの宣伝プロデュースを手掛け、湯川専務シリーズのcmを企画し、その流れで、アイドル「チェッキ娘」の企画にも関わったりとしましたが、大成功というまではいきませんでした。
もともと、ラジオ放送でハガキ職人をしていた秋元康氏にしてみれば、80年代の成功は、自分自身が時代の一つのピースだったが故に起こったのでしょう。それが、90年代に入り、業界の中にいることが増えることで、時代の空気が掴みきれていなかったのかもしれません。
ある意味、小室哲哉氏が全盛の頃、秋元康氏は少し、落ち着いており、小室哲哉氏が目立たなくなると、秋元康氏が目立つようになってきたようにも見えます。
いずれにせよ、90年代どっぷり浸かっていた業界の中から、AKBという企画を通じて、再び現場に出て声を集めてきたことが、この10年の成功の最大の理由かもしれません。
そういう意味でも、90年代は様々な実験が行われてきた時代だったともいえそうです。
※第12回「フラッシュバック 90s【Report.12】
「学校へ行こう!」で思い出した、素人がまだ生きていた90年代」はコチラ
※本連載の一覧はコチラをご覧ください。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。