寂しい雰囲気のベンチ

1.ふたつの異化

文学上での効果として、異化という手法がある。それは、日常的に慣れ親しんでいるものを、例えば宇宙人の目から見た人間を描写するときのように、対象を奇妙なもの、滑稽なもの、非日常的なものに変容さてしまう手法を指す。ヴィクトル・シクロフスキー(1893~1984)が、『散文の理論』(1924年)で初めて突き詰めて分析したこの手法は、マルクス・アウレリウス(121~180)にまでさかのぼるほど長い伝統を持っているという。
イタリアの歴史学者であるカルロ・ギンズブルグの『糸と痕跡』(みすず書房)の「寛容と交易―アウエルバッハ、ヴォルテールを読む」に、ヴォルテールの異化効果を示す作品の一つとして、『雄鶏と雌鶏の対話』(1763年)が挙げられている。その中の、「一見したところ軽い調子で書かれたようにみえるわずかのページのなかで、雌鶏と雄鶏は互いに心の内をうち明けあう。どちらも去勢されているというのだ。世間のことを少しはよく知っている雄鶏は純真な雌鶏に自分たちを待ち受けている運命を告げ知らせる。殺され、煮て焼かれ、食べられてしまうだろう、と。ほどなくして料理助手がやってくる。雌鶏と雄鶏は別れの言葉を交わしあう。」という説明を読んで、諸星大二郎の『バイオの黙示録』(集英社)に収められている「養鶏場」という一編を思い浮べた。こちらは、人間の遺伝子が組み込まれた鶏という設定で、人間の言葉で会話し、顔も人面鶏といった趣で描かれている。動物を人間に例えるような比喩としての擬人化とは明らかに異なり、異化効果が持つ奇妙な違和感を読者に与える作品である。

2. ヴォルテールの異化

ヴォルテールの鶏は宗教的な、諸星の鶏は科学的な色彩を帯びているものの、どちらも啓蒙主義思想(17世紀後半~18世紀にかけて主流となった思想)の抱える両義性の問題と無縁ではいられないように見える。つまり、人間の無知を理性の光で取り払うという啓蒙主義の理念が、現状への批判的潜在力と多様性への寛容を有している一方で、当時の歴史的な限界として、そこから女性やユダヤ人といった特定のカテゴリーが抜け落ちているという両義性である。
ヴォルテールは理性の光の照射範囲を動物にまで広げているにもかかわらず、雌鶏にユダヤ人への偏見を叫ばせている。つまり、啓蒙主義思想の体現者であったヴォルテールが一方で人種主義者(レイシスト)であり、後の世の人種主義的イデオロギーが啓蒙主義思想を経た18世紀に端を発しているということは、大変示唆に富むと私には思われる。ただし、ヴォルテールが、当時の白人男性の常識的意識に盲目的に従っていただけではないと思わせる要素も、彼の残した文章から読み取ることもできる。『雄鶏と雌鶏の対話』では、雌鶏はユダヤ人を「種」、「人種」と言っていていたのに対し、ヴォルテール自身は「民俗」と表現しているという。その違いに、ギンズブルグは雌鶏=ヴォルテールではない、一定の距離を認めている。では、ヴォルテールのとった距離とはどういうものだったのだろうか。「罪のない犠牲者たちも偏見から自由なわけではない、とヴォルテールは皮肉っぽく示唆しているようにもみえる。雄鶏は人間たちを『わたしたちと同じように二本脚をしているが、羽毛はもっていないので、わたしたちよりもはるかに劣る動物』であると定義している。雄鶏と雌鶏はかれらの迫害者たちの偏見を分かちもっているわけである。そして、それは、かれらを滑稽であると同時に自分たちと近しい存在にしているのだ。」と、ギンズブルグは読み取る。ヴォルテールは、自分に偏見があることを認めると同時に、偏見を持たれる者にも同じ偏見を持たせている。寛容さの手法であったはずの異化が、不寛容さの同化として反転してしまっているようにみえる。

3.諸星大二郎の異化

諸星の異化は、このヴォルテールの不寛容さの同化を発展させ、人間と鶏の混合を推し進め(物語の最後には、養鶏場の経営者も鶏たちに襲われ、人面鶏の遺伝子に組み込まれていく)、結果的に多様性の自由さを失わしめている。掛け合わせでできる新しい品種は異化のようで同化であることを、諸星は、掛け合わされる品種間の不寛容さとともに示している。そこから、異化という手法の持つ照射の範囲がどのように拡げられ展開されていったかを見ることができる。つまり、自らへの批判と他者への寛容を喚起する作用があったこの手法が、ヴォルテールのように自らの属する現実の限界を土台にしていたことがあらわになり、さらに諸星のようにあるところで同化に転ずるという異化作用そのものの持つ限界をもまた照らし出すのである。

4.異化の光の届かない闇へ

 否定の上に立つ寛容とは、鶏も人間と同じ生き物、同じ重さの生命を持つものとして認めるということではなく、鶏と人間は違うけれども違うまま認めるということであると私は考える。違いをいうこと自体が不寛容であるから違いを無視して同化させようとする態度は、結局は、世界の多様性を否定し寛容とは正反対の道をとり、人間の自由と種そのものの首を絞めるものになるのではないか。
ユダヤ人としてナチスに迫害を受けたアウエルバッハは、『ミメーシス』(1946年)でヴォルテールを取り上げている。アウエルバッハからみたヴォルテールは、後世のアウエルバッハ自身の事情もあり、啓蒙主義思想と異化効果の持つ寛容さよりも、不寛容さのほうを敏感に感じ取っている。ただ、ナチスとヴォルテールの間には、ギンズブルグが指摘するように単純な近さがあるとは思えない。歴史的限界と意図的な歴史は違う。そして、ここで問題になっている「違い」は、「同じ」の反対ではない。「同じ」の反対であるから、「違い」は反転して「同じ」になってしまう。しかしそもそも「違い」は反転しないものなのだ。難しいのは、例えていうならば、「同じ」が二次元に存在するとすれば、「違い」は三次元に存在し、にもかかわらず、私たちはどちらも網膜という二次元のスクリーンに映すことでしか感知できない、ということにあるだろう。それでも、ギンズブルグがやって見せているように、「違い」の残したわずかな痕跡から、その気配を掴むことは可能なのである。

西部邁

内島すみれ

内島すみれ

投稿者プロフィール

子供の頃から東京、福岡、神戸を転々とする。そのせいか、好んで読む本の多くが、故郷を持たないマージナルなユダヤ系の人が書いたものや、それを扱ったものが多いことに最近気づく。ブログでも練習として批評を書いているが、まだはじめたばかり。最近は、W.G.ゼーバルトの『目眩まし』の分析に取り組んでいる。
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