キリスト教においては、神の前における自由が問題となります。全知全能の神という設定において、自由意志の問題が発生するからです。
全知全能の神という設定の前では、人間の意志による選択ということが不可能になると考えられます。なぜなら、神が全てを知っていて、全てを行う能力を有しているなら、神は人間の全てを司るため、人間が何かを判断して選択を決断することはできないからです。
私の考えを神は既に知っており、私の為すことを神が全て差配しているのなら、私の判断はあり得ず、私の意志は存在しないことになります。キリスト教神学における自由意志の問題は、この問題に対する取り組みとして展開されています。
オリゲネスの自由
オリゲネス(Origenes Adamantius,185頃~254頃)は、ギリシャ思想による聖書解釈を試みた、古代キリスト教最大の神学者です。
『諸原理について』には、「自由意志について」という章があり、自由意志について論じられています。まず、神より与えられた動きを善悪どちらに向けるかは、我々によることだと考えられています。我々は意思の能力を神から受けており、良い願望や悪い願望へ意思を用いるのは我々であり、行為も同様だというのです。その我々の自由意志は、神の助けなしに成し遂げられず、神の果たすことが我々の行動を伴わないで成し遂げられることもないと語られています。
アウグスティヌスの自由
アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354~430)は、初期キリスト教の西方教会最大の教父です。青年期にマニ教を信奉し、次いで新プラトン学派哲学に傾倒し、後にキリスト教に回心しました。
『神の国』には、神の予知を認めたとしても、意志の自由を廃棄せねばならぬわけではないと語られています。同様に、意志の自由を認めても、神の予知を否定する必要はないというのです。
アウグスティヌスが意志の自由を告白するのは、よく生きるためだと述べています。神が知性的本性に自由意志を与えたため、もしその対象が選ぶのなら、神の至福を捨てて悲惨が続くことが可能だというのです。神は、人間を神と同じように、自由意志をもつ正しいものとしてつくったというのです。
神は、人間が神を捨てて罪を犯すことも予知していましたが、天使と同じく人間から自由意志の力を奪いとらなかったと語られています。なぜなら、その悪からも、何らかの善をつくるであろうことを予見されたからだというのです。
トマス・アクィナスの自由
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225頃~1274)は、イタリアの哲学者で神学者です。キリスト教とアリストテレス哲学を総合し、スコラ学を集大成しました。
『神学大全』には、必然的な意志や、自然本性的衝動による意志を除けば、われわれが自由意志を有していると説明されています。
神については、善性は必然的に意志し、それ以外には自由意思を有すると考えられています。そのため、神は善性によってすべてを意志するため、神は罪という悪を意志することが不可能であると語られています。
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