パリ銃撃事件の背景をよく考えてみよう
- 2015/1/19
- 国際, 社会
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以下の記述は、拙ブログに掲載済みの「EU崩壊の足音聞こゆ」、および当サイトに掲載された拙稿「なぜ中東で戦争が起こるのか」と合わせて読んでいただければ幸いです。
一括りにテロ批判しただけでは、複雑な事情は見えてこない
まずは、いきなりずっこけたことを言います。
ここ数日(1月7日から15日まで)、パリ銃撃事件の報道を産経新聞と朝日新聞とで読み比べてきましたが、事実報道に関する限り、なんとあの朝日のほうが、突込みが深く、公正な視野をキープしているという印象を持ちました。と言って、別にいまさら朝日を擁護する気など毛頭ありませんが、メディアを論評する側も、個々の情報発信の仕方に関して公正な判断を要求されるので、このことを指摘すべきだと思いました。
具体的に言いましょう。
産経新聞は、ほとんどの記事が、欧米が至上の価値観とする「自由と民主主義」理念–この場合は「表現の自由」――に乗っかって、「テロをけっして許すな」という単純な主張で盛り上がっている欧米の空気をそのまま伝えているだけです。1月9日付では、ニューヨーク、サンパウロ、香港、東京における集会で「私はシャルリー(襲撃された週刊誌本社)」というプラカードを掲げる人たちの大きな写真を掲載していますが、いっぽうで、テロ実行者たちが属するイスラム文化圏の人々の複雑な背景については詳しい記述がありません。
これに対して、朝日新聞は、1月11日付で、フランスのニュース専門局によるテロ実行者へのインタビュー記事を載せ、彼らが「イスラム国」に所属しているという明確な証言を引き出しています。また警官と人質を殺してスーパーに立てこもったクリバリ容疑者について、このスーパーを選んだ動機はユダヤ人の店だからだという彼自身の証言も引き出しています。12日付では、イエメンを拠点とする「アラビア半島のアルカイダ」、「イスラム国」、アルジェリアを拠点とする「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」などが今回の行為を支持している事実、これらの組織をめぐる複雑な事情、アフガニスタンやパキスタンでの、政権の公式声明と一部の国民の意識の間のギャップ、印刷工場に立てこもった兄弟のサイド、シェリフ両容疑者の、従業員に対する優しい態度などについて詳しく報じています。
まさか反日メディアの判官贔屓というわけでもないでしょうが、いずれにしても、こういう国際的なテロ事件に関しては、バイアスをなるべくかけない報道の仕方が大切で、ことに私たちが事情をあまり知らないイスラム文化圏にかかわる場合には、なぜこういうことになるのかをよくよく考えてみる必要があります。あらゆるテロをただひたすら一括りにして「絶対に許すな」と叫んで済ませているだけでは、そのへんの事情が見えてきません。それを見るための素材を少しでも提供してくれているという意味で、今回の朝日報道は評価されてしかるべきでしょう。
以上はまあ、話の枕のようなもので、これからが本題です。
積極的な移民受け入れ政策が招いた治安や人心の荒廃
次に思ったのは、今回のパリ警察の対応が、テロを取り締まる立場からすれば、最悪だったということです。
4人の人質が殺され、一人の容疑者を逃がしてしまい、3人の容疑者は銃殺されました。だれも逮捕されていません。これでは、犠牲者を出しながら、相手が属する組織や実行動機について確かな情報が何も得られません。フランスの警察は、8万人もの動員をかけながら、そのへんの配慮がどうも甘く、やり方が荒っぽすぎる。こんな失態を重ねるようでは、警察への不信感はいっそう深まるでしょう。どうも武力面だけは粗暴になっていて、肝心の秩序維持のためのインテリジェンスがはたらいていない。言葉にはなりにくいそういう現場の雰囲気を見逃してはなりません。
これは小さなことのようですが、国内の空気が想像以上に殺気立っていることを象徴しています。それもそのはず、フランス(だけでなく一般にEU諸国)は「開かれた自由な圏域」という建前を取りながら、かえってそのことのために移民との文化摩擦や治安の悪化を助長しており、みんなが異民族に対する警戒心で互いにピリピリしているのだと思われます。フランスの人口の約8%に当たる500万人はイスラム系です。その他ユダヤ系、スラヴ系、アフリカ系などの人種・民族・もたくさんいるので、パリなどは多様な人種・民族が混在する一種の「小アメリカ」といってもよいでしょう。
こういう地域では、いったん事が起きると、市民の間に緊張が走り、関連地域の住民はひっそりとドアの内側にこもり、自主的な戒厳令のような様相を呈します。今回の事件がまさにそうでした。日本人が当たり前と思っている、見知らぬ路傍の人同士の信頼関係などはまずないと考えた方がよい。フランスから初来日したある人は、電車の中で乗客が居眠りしているのにびっくりしたそうです。
昔から、ヨーロッパはジプシーその他による観光客相手のすり・泥棒が多く、日本人旅行者はいいカモにされると言われてきましたが、ここ数年、治安や人心の荒廃がより進んでいるような気がしてなりません。もちろん、一律にそうだとは言い切れませんし、見てきたようなことを言うのは危険だと承知の上ですが。
仮に私のこの推測が当たっているとして、なぜそういうことになるのでしょうか。答えは明らかです。域内グローバリズムおよび積極的な移民受け入れ政策が自ら招いた結果としか考えられません。
ヨーロッパは、国によってEU(欧州連合)に参加していない国(例:スイス、ノルウェー)、ユーロ圏に参加していない国(例:イギリス、スウェーデン)、国境検査の必要ないシェンゲン協定に参加していない国(例:イギリス、アイルランド)などいろいろです。しかし、二つの大戦のトラウマと、冷戦期における西側諸国のソ連に対する結束の必要とに発した、「国境の壁を低くしてヨーロッパ人同士が互いに国を開くことはいいことだ。ナショナリズムを超えなければならない」という理念だけは、いまだに共通して生きていると言ってよいでしょう。
コメント
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大変興味深く読ませていただきました。
「グローバリズム~」の”二つ目は、大量の移民を受け入れたことによって、深刻な文化摩擦が発生し、さらに、低所得に甘んじる移民によって賃金競争が引き起こされ”は、”甘んじる低所得者”が、賃金闘争をひきおこしたのか?
(私個人的に大変不勉強なものですみません。)
以下について単純な疑問が2つあります。
”ヨーロッパの主要国はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉する世俗的・近代的な市民と、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在する妥協不可能な対立意識が沸騰していると言っても過言ではありません。ユダヤ人とアラブ人の反目もあります。そのうえに、経済の停滞による格差の拡大、貧困層の増加、失業率の高止まりという問題が重なり合います。””
とありますが、①ヨーロッパの主要国の「自由平等と人権と民主主義」を価値と戒律を順守するイスラム」は必ずしも相反するものなのか。ヨーロッパの「自由平等と人権と民主主義」の価値の成熟は本物なのか。②日本においても在日の方や移民の方と「自由平等と人権と民主主義」を価値について、共通認識や知識を作っていかなければ、分かり合えない距離ができて、気づいた時には大きな問題を引き起こしかねないのではないか。
山﨑悦子さま
ご質問にお答えします。
まず、「賃金競争」とは、労働者がいくら低賃金でもまずは雇ってもらうことを優先的に求めるために、そこに競争が起こり、これまでの平均賃金が下がってしまうことを意味します。これが生産価格を押し下げ、結果的に貧困化とデフレの一因になるわけです。労働者が団結する「賃上げ闘争」とはまったく意味が異なります。
①ヨーロッパ、特にフランスでは、国家が建前として徹底的な政教分離の立保を取ります。これが世俗的な市民主義です。しかし現実には、日常生活のなかで、イスラム教、ユダヤ教などの宗教を信仰する人たちが混在するために、この建前を貫こうとしても、さまざまな軋轢が生じます。たとえばイスラム教徒のブルカの着用が学校で禁止されたり、というように。
フランス市民の多くは、フランス革命以降の宗教否定の建前を守ろうとしますから、イスラム教徒との間に非妥協的な対立が生まれ、これはいまのところ、深まりこそすれ、解決の目途はたっていません。そこには根深い歴史的な理由があるので、簡単に「自由、平等、人権、民主主義」が社会全体で成熟するなどということは言えないのです。また、これは私見ですが、こうした理念の「成熟」ということが何を意味するのか、具体的によくわかりませんし、それが無条件にいいことだとも言えません。
②いま述べたように、私は西洋由来の「自由、平等、人権、民主主義」を必ずしも絶対的に正しい価値と思っていませんので、これが実現したからと言って、「分かり合える」状況が生まれるかどうかは保証できません。このような抽象的な理念を、人同士が分かり合えるための不可欠な条件であると考えないでください。逆に、そのような理念をわざわざ掲げなくとも、社会的カテゴリーの異なる特定の人と人とが生身での接触経験を深めることによって分かり合えることはあり得ます。難しいですけれどね。
、
中途半端なコメントを書いて失礼いたしました。丁寧な語説明ありがとうございます。少し述べさせていただきます。①「低所得に甘んじる移民によって賃金騒動がひきおこされ、」は、ご説明ですと「低賃金でもいいから多くの移民なり労働者を雇ってもらう」ための「賃金闘争」なのですね。「低賃金に甘んじる移民」の「甘んじる」の内容を読み取れませんでした。②フランスの政教分離の教育はよく知られるところで、日本でも今後の世界を担う若者を育成するために、アジアなどから積極的に留学生を受け入れていく方向にあると聞きます。異文化を了承しあうには教育は、重要なファクターの1つだと私も考えます。現在は、”ヨーロッパの主要国はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉する世俗的・近代的な市民と、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在する妥協不可能な対立意識”とすると、フランスは、どの程度「自由・平等・博愛・民主主義」等の教育がなされているか。「妥協不可能な対立意識が沸騰している」というほどの反目なのだろうか。”ヨーロッパの主要国の世俗的・近代的な市民はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉しているならば、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在するものは妥協不可能ではないはずだと考えます。私には、”ヨーロッパの主要国の世俗的・近代的な市民”は少なくとも「自由、平等、人権、民主主義」において成熟していると思っていると、勝手に感じていました。ここでの成熟は理念に対して市民が、その理念を理解し「判断・行動・責任」が伴うものととらえています。実際は”社会的カテゴリーの異なる特定の人と人とが生身での接触経験を深めることによって分かり合えることはあり得ます。難しいですけれどね。”とまとめていただいたことに尽きるのでしょうね。つたない文章にお付き合いいただいて恐縮です。