パリ銃撃事件の背景をよく考えてみよう
- 2015/1/19
- 国際, 社会
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域内グローバリスムがもたらした二つの大きな困難
ところがこの理念がまさに曲者なのです。この理念は、二つの大きな困難を生み出しました。
一つは、経済的な統合のために通貨の統一を図ったことにより、各国の経済的な主権が失われたことです。一国の経済政策は、金融政策と財政政策の連係プレーによって行われますが、ユーロ圏の諸国には金融政策の権利がありません。また、GDPに対する政府の負債の割合の上限が決められていて、国情に合わせた自由な財政政策がとれないのです。もちろんこの割合はまったく守られていませんが、それだけに一層、各国首脳陣は、借金が膨らんでしまった危機感を募らせているわけです。
そのため、不況や財政危機に陥った国がそれを克服しようとして他国からお金を借りようとする場合には、厳しい緊縮政策を取ることが条件となります(健全財政ぶりを見せなければ貸してくれないので)。しかしこれは同時に国民経済の成長を阻害し、国民を一層貧困化させる要因になります。財政破綻したギリシアがそのよい例で、現在この足枷を解くためにEU離脱も辞さないという勢力が急激に成長しつつあります。フランスの国民戦線、イギリスの独立党なども同じ方向性を目指して、多くの国民の支持を得ています。
二つ目は、大量の移民を受け入れたことによって、深刻な文化摩擦が発生し、さらに、低所得に甘んじる移民によって賃金競争が引き起こされ、一国の経済規模が全体として低成長(ゼロ成長あるいはマイナス成長)に陥り、デフレの悪循環に突っ込みつつあることです。移民問題は、現代のヨーロッパの理想と現実のギャップを象徴する最も頭の痛い問題で、彼らを露骨に排除するわけにもいかず、さりとてそこに生ずる宗教的な文化摩擦や経済問題を解決することもできません。
以上二つを合わせて考えると、なぜ今回のような事件が発生したか、その背景が少し見えてくるでしょう。ヨーロッパの主要国はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉する世俗的・近代的な市民と、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在する妥協不可能な対立意識が沸騰していると言っても過言ではありません。ユダヤ人とアラブ人の反目もあります。そのうえに、経済の停滞による格差の拡大、貧困層の増加、失業率の高止まりという問題が重なり合います。フランスはいま、移民であると否とを問わず、低所得者層に不満が鬱積しているわけです。
キリスト・イスラム教文化圏が近親憎悪を繰り返した歴史的経緯
ヨーロッパの外に目を向けてみましょう。
もともと中東地域は大英帝国の植民地でした。強い宗教的色彩を帯びたイスラム文化圏であるにもかかわらず、その国家区分と統治のスタイルは、オスマントルコ滅亡後にヨーロッパ近代が自分たちの世俗的な国民国家モデルを無理に押し付けたところに成立しています。その形態がどこでも通用する普遍的で最高の形態なのだという傲慢さと優越意識が当時のイギリスにはあったのでしょう。今回の事件の場合にもこの負の歴史的遺産が影を落としていることは明らかです。
思えば、キリスト教文化圏とイスラム教文化圏とは、十字軍の昔から、深い交流あるがゆえに歴史的な近親憎悪を繰り返してきました。近親憎悪というのは、両宗教が母胎(ユダヤ教)を同じくしながら互いに相手を異端視する一神教であるという意味です。
さまざまな風土的・社会的条件が幸いして豊かな産業社会の確立に成功したヨーロッパと比較して、隣接する中東地域は、古代におけるあの隆盛をよそに繁栄から取り残され、世界でも有数の貧困地域に落ち込んでしまいました。宗教的な近親憎悪にこの経済的なギャップが加わります。2001年の9・11テロもそうですが、今回のような事件には、中東側のそうした長きにわたる怨嗟の歴史が関わっています。よく、イスラム圏の内外におけるテロ事件が発生するたびに、欧米諸国の政府は「自由」を普遍的価値としてことさら強調しますが(日本政府もそれに追随していますが)、そういう言い括りは、現在のイスラム圏にそのまま通用すると考えるほうが無理でしょう。
素直に受け入れられない、370万人の「官製デモ」
ところで1月11日、パリで犠牲者の追悼と表現の自由を訴える数十万人の集会とデモが行われ、フランス全土では、370万人が反テロのデモに参加したと伝えられています。この状況を私はとうてい素直に受け入れるわけにはいきません。それにはいくつもの理由があります。
第一に、この集会とデモが政府の呼びかけによる官製デモだということ(官製デモは反日を掲げるどこかの国もやりましたっけ)。参加した50か国の首脳の多くは、もちろんイデオロギーを同じくする西側自由主義諸国(国連も含む)の人々です。この何やら大げさな運動によって、「自由」を普遍的価値として掲げる強国の威力はいやがうえにも世界に印象づけられたと言えるでしょう。もとよりこれは、グローバリズムの恰好の宣伝になります。
ちなみにオランド大統領は、デモを呼びかける前に国民戦線のルペン党首をひそかに呼び何ごとかを言い含めたそうです。そうしてルペン党首は、集会に招かれませんでした。おそらく大統領は国民戦線がデモで排外主義的表現行動に出ることを恐れたのでしょう。ここには、「表現の自由」を掲げながら、いわゆる「極右」にはそれを許さないという政治的欺瞞の臭いが紛々です。結果的に、この事件とデモとは、ヨーロッパ・グローバリズムの政治的な意図に巧妙に利用されたのです。すべての思想や宗教的信条に寛容であるかのような建前は、それが権力を握る者の口から発せられるメッセージであることによって、実際には自分だけが正しいという主張に転化します。ですから、この数十万人のデモには、おそらく多くの穏健なイスラム教徒も、テロリストと自分たちとを区別して見せるために、慌てて参加せざるを得なかったでしょう。
第二に、ごく一般的に言って「テロ=絶対に許せない悪」と一口に言い括れるのかどうか。たとえば大義のない戦争として名高いイラク戦争は、多くの民間人犠牲者が出ているにもかかわらず、アメリカはそのことについて公式的に反省したという話を聞きません。また原爆投下や日本本土無差別爆撃は、明らかに民間人の大量殺戮であり、テロどころではありません。これは連合軍がナチス・ドイツを裁くときに自らレトリックとして用いた「人道に対する罪」にどう見ても匹敵しますが、彼らはそのことを一度も認めたことがありません。もしテロを一方的に道徳的非難の対象にするなら、それらについてまず公式見解を出してからにすべきでしょう。単に、一国の治安維持のためにテロから国民や市民を断固として守るというだけなら理解できますが。
第三に、今回のテロは、9・11テロと同一視できない面があります。9・11テロにおける貿易センタービル攻撃は、その目標がアメリカの繁栄の象徴を打ち砕くという多分に観念的な動機に基づいています。これは明らかに無辜の民衆をも巻き込んだ無差別テロです。これに対して、今回の事件は、イスラムの最高預言者・ムハンマドを「諷刺」し続けてきた特定の週刊誌の執筆者たちを狙ったのであり、それは実行者たちおよびその背後の勢力の直接的な屈辱感情に裏付けられている面があります。無関係な人質4人を殺した行為は、平和を享受している私たちから見れば確かに道徳的に非難されてしかるべきですが、これは警察の目をひきつけるための一種の陽動作戦とも解釈できます。けっして実行者たちを擁護するわけではありませんが、彼らにしてみれば命を捨てることを覚悟の上での決死の作戦なのですから、道徳的な非難を浴びせても何の効果もないでしょう。
コメント
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大変興味深く読ませていただきました。
「グローバリズム~」の”二つ目は、大量の移民を受け入れたことによって、深刻な文化摩擦が発生し、さらに、低所得に甘んじる移民によって賃金競争が引き起こされ”は、”甘んじる低所得者”が、賃金闘争をひきおこしたのか?
(私個人的に大変不勉強なものですみません。)
以下について単純な疑問が2つあります。
”ヨーロッパの主要国はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉する世俗的・近代的な市民と、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在する妥協不可能な対立意識が沸騰していると言っても過言ではありません。ユダヤ人とアラブ人の反目もあります。そのうえに、経済の停滞による格差の拡大、貧困層の増加、失業率の高止まりという問題が重なり合います。””
とありますが、①ヨーロッパの主要国の「自由平等と人権と民主主義」を価値と戒律を順守するイスラム」は必ずしも相反するものなのか。ヨーロッパの「自由平等と人権と民主主義」の価値の成熟は本物なのか。②日本においても在日の方や移民の方と「自由平等と人権と民主主義」を価値について、共通認識や知識を作っていかなければ、分かり合えない距離ができて、気づいた時には大きな問題を引き起こしかねないのではないか。
山﨑悦子さま
ご質問にお答えします。
まず、「賃金競争」とは、労働者がいくら低賃金でもまずは雇ってもらうことを優先的に求めるために、そこに競争が起こり、これまでの平均賃金が下がってしまうことを意味します。これが生産価格を押し下げ、結果的に貧困化とデフレの一因になるわけです。労働者が団結する「賃上げ闘争」とはまったく意味が異なります。
①ヨーロッパ、特にフランスでは、国家が建前として徹底的な政教分離の立保を取ります。これが世俗的な市民主義です。しかし現実には、日常生活のなかで、イスラム教、ユダヤ教などの宗教を信仰する人たちが混在するために、この建前を貫こうとしても、さまざまな軋轢が生じます。たとえばイスラム教徒のブルカの着用が学校で禁止されたり、というように。
フランス市民の多くは、フランス革命以降の宗教否定の建前を守ろうとしますから、イスラム教徒との間に非妥協的な対立が生まれ、これはいまのところ、深まりこそすれ、解決の目途はたっていません。そこには根深い歴史的な理由があるので、簡単に「自由、平等、人権、民主主義」が社会全体で成熟するなどということは言えないのです。また、これは私見ですが、こうした理念の「成熟」ということが何を意味するのか、具体的によくわかりませんし、それが無条件にいいことだとも言えません。
②いま述べたように、私は西洋由来の「自由、平等、人権、民主主義」を必ずしも絶対的に正しい価値と思っていませんので、これが実現したからと言って、「分かり合える」状況が生まれるかどうかは保証できません。このような抽象的な理念を、人同士が分かり合えるための不可欠な条件であると考えないでください。逆に、そのような理念をわざわざ掲げなくとも、社会的カテゴリーの異なる特定の人と人とが生身での接触経験を深めることによって分かり合えることはあり得ます。難しいですけれどね。
、
中途半端なコメントを書いて失礼いたしました。丁寧な語説明ありがとうございます。少し述べさせていただきます。①「低所得に甘んじる移民によって賃金騒動がひきおこされ、」は、ご説明ですと「低賃金でもいいから多くの移民なり労働者を雇ってもらう」ための「賃金闘争」なのですね。「低賃金に甘んじる移民」の「甘んじる」の内容を読み取れませんでした。②フランスの政教分離の教育はよく知られるところで、日本でも今後の世界を担う若者を育成するために、アジアなどから積極的に留学生を受け入れていく方向にあると聞きます。異文化を了承しあうには教育は、重要なファクターの1つだと私も考えます。現在は、”ヨーロッパの主要国はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉する世俗的・近代的な市民と、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在する妥協不可能な対立意識”とすると、フランスは、どの程度「自由・平等・博愛・民主主義」等の教育がなされているか。「妥協不可能な対立意識が沸騰している」というほどの反目なのだろうか。”ヨーロッパの主要国の世俗的・近代的な市民はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉しているならば、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在するものは妥協不可能ではないはずだと考えます。私には、”ヨーロッパの主要国の世俗的・近代的な市民”は少なくとも「自由、平等、人権、民主主義」において成熟していると思っていると、勝手に感じていました。ここでの成熟は理念に対して市民が、その理念を理解し「判断・行動・責任」が伴うものととらえています。実際は”社会的カテゴリーの異なる特定の人と人とが生身での接触経験を深めることによって分かり合えることはあり得ます。難しいですけれどね。”とまとめていただいたことに尽きるのでしょうね。つたない文章にお付き合いいただいて恐縮です。