パリ銃撃事件の背景をよく考えてみよう

イスラム教を愚弄、侮蔑することが「表現の自由」?

 第四に、そもそも「表現の自由」という理念の抽象性にもっぱら依存することは、実質上どんな問題を引き起こすでしょうか。
 まず浮かぶのは、だれもが指摘するように、その線引きが難しいという点です(今回のシャルリー・エブドの表現についてどう判断すべきかは後述します)。

 次に、表現の自由をじゅうぶんに行使するには、いろいろな意味での「力」が必要とされるという点です。才能、意志力、心の余裕、経済力、文化環境、政治的バックボーン、等々。これはすでに誰かが指摘していたことですが、たとえば現在のフランスで、移民二世、三世としてのイスラム系の普通の人が、シャルリー・エブド誌に対抗してキリスト教やヨーロッパ市民主義を「諷刺」しようと思って、同誌に匹敵するだけの「力」を発揮することはまず無理でしょう。強者のみが表現の自由を行使できるのです。社会的弱者は強者の表現という権力行使を我慢するより外に道はありません。表現の自由を普遍的価値として声高に叫ぶことは、そうした現実を隠蔽する作用として機能します。

 第五に、肝心のシャルリー・エブド誌のイラストが、具体的にどんな性格のものだったかを検証せずに、いまここで表現の自由の大切さを唱えることには意味がありません。

 すでに事件後初めて刊行された同誌の表紙は、いくつかのメディアに公表されているので、ご覧になった方も多いでしょう。ムハンマドが「私はシャルリー」と書いた紙を胸元に掲げながら、涙を流している絵で、上に「すべては許される」と書かれています。これだけでもかなりイスラム教徒に対する挑発的なメッセージですが、事件以前のものは、もっとずっと下品で、イスラム教徒を激しく愚弄し、侮辱しているとしか思えません。二つだけ紹介しておきましょう。

1)素っ裸のムハンマドが尻をこちらに向けて陰嚢をだらりとたらし、肛門部分に黄色い星があてがわれ、上に「星は生まれぬ」と書かれている。(私はコーランに詳しくないので推測ですが、この言葉はきっと神聖な語句として有名なのでしょう)。

2)イスラム教のウラマー(法学者)がコーランを前に掲げているところに、たくさんの弾丸が飛んできてコーランを貫いている。「コーランは弾除けにならない」との文句があり、表題部には「コーランは糞だ」と書かれている。

*なおこれらは「シャルリー・エブド イスラム教 諷刺画 画像」と検索すれば閲覧できます。

 こういうのを風刺というのでしょうか。だれが見てもただの愚弄、侮辱、嘲笑い、差別表現に他なりません。これで怒りを感じないイスラム教徒がいたらお目にかかりたい。よく言われるように、イスラム教徒の間では、ムハンマドの肖像を描くだけでも冒涜とされます。かつてムハンマドを侮蔑したあるアメリカ映画が元で、駐リビア大使をはじめとする数人のアメリカ人が殺された事件がありましたが、私は、この映画のダイジェスト版を見る機会がありました。言葉は半分くらいしかわかりませんでしたが、映像を見ただけでも、これではイスラム教徒が怒って当然だと思いました。これらは許されるべき「表現の自由」などではなく、日本でもいま話題となっている「ヘイト・スピーチ」と何ら変わりません。

 じつはここには、移民の増加に対する一種の無意識の「恐怖」が作用しているのだと思います。経済評論家の三橋貴明氏が語っていましたが、アラブ系の住民が多く住むパリのある地区(おそらく18区か19区だと思われます)で、広い範囲にわたって交通を遮断し、大勢のイスラム教徒たちがいっせいに礼拝をしていた映像を見たことがあり、戦慄を感じたとのことでした。こういうことがたびたび起きているとすると、もともとのパリジャンが不安や恐怖を抱いても不思議ではありません。

 つまりこういうことです。

 シャルリー・エブドの制作者や読者であるパリジャンは、そういうメディアを広めたり愛読したりすることのできる文化環境や政治的バックボーンを手にしてはいるが、じつは自分たちのナショナリティが移民たちによって脅かされつつあることをじわじわと察知している。そのために対抗手段としての侮蔑的な表現に手を出す。そうしてそれが暴力によって否定されると、その潜在的な不安や恐怖の解消手段として、極度に単純化された「テロを許すな。表現の自由を守れ!」というスローガンにヒステリックなまでに縋ることになる。「表現の自由」とは、じつは彼らにとってだけの「表現の自由」であり、イスラム系移民にはそんなものは許されていない!……数十万人のデモの実態はおそらくそれです。

→ 次ページ「フランス人は、イスラム教移民の「同胞愛」によって脅かされる」を読む

固定ページ:
1 2

3

4

西部邁

関連記事

コメント

    • 山﨑 悦子
    • 2015年 1月 26日

    大変興味深く読ませていただきました。
    「グローバリズム~」の”二つ目は、大量の移民を受け入れたことによって、深刻な文化摩擦が発生し、さらに、低所得に甘んじる移民によって賃金競争が引き起こされ”は、”甘んじる低所得者”が、賃金闘争をひきおこしたのか?
    (私個人的に大変不勉強なものですみません。)
    以下について単純な疑問が2つあります。
    ”ヨーロッパの主要国はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉する世俗的・近代的な市民と、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在する妥協不可能な対立意識が沸騰していると言っても過言ではありません。ユダヤ人とアラブ人の反目もあります。そのうえに、経済の停滞による格差の拡大、貧困層の増加、失業率の高止まりという問題が重なり合います。””
    とありますが、①ヨーロッパの主要国の「自由平等と人権と民主主義」を価値と戒律を順守するイスラム」は必ずしも相反するものなのか。ヨーロッパの「自由平等と人権と民主主義」の価値の成熟は本物なのか。②日本においても在日の方や移民の方と「自由平等と人権と民主主義」を価値について、共通認識や知識を作っていかなければ、分かり合えない距離ができて、気づいた時には大きな問題を引き起こしかねないのではないか。

  1. 山﨑悦子さま

    ご質問にお答えします。

    まず、「賃金競争」とは、労働者がいくら低賃金でもまずは雇ってもらうことを優先的に求めるために、そこに競争が起こり、これまでの平均賃金が下がってしまうことを意味します。これが生産価格を押し下げ、結果的に貧困化とデフレの一因になるわけです。労働者が団結する「賃上げ闘争」とはまったく意味が異なります。

    ①ヨーロッパ、特にフランスでは、国家が建前として徹底的な政教分離の立保を取ります。これが世俗的な市民主義です。しかし現実には、日常生活のなかで、イスラム教、ユダヤ教などの宗教を信仰する人たちが混在するために、この建前を貫こうとしても、さまざまな軋轢が生じます。たとえばイスラム教徒のブルカの着用が学校で禁止されたり、というように。
    フランス市民の多くは、フランス革命以降の宗教否定の建前を守ろうとしますから、イスラム教徒との間に非妥協的な対立が生まれ、これはいまのところ、深まりこそすれ、解決の目途はたっていません。そこには根深い歴史的な理由があるので、簡単に「自由、平等、人権、民主主義」が社会全体で成熟するなどということは言えないのです。また、これは私見ですが、こうした理念の「成熟」ということが何を意味するのか、具体的によくわかりませんし、それが無条件にいいことだとも言えません。

    ②いま述べたように、私は西洋由来の「自由、平等、人権、民主主義」を必ずしも絶対的に正しい価値と思っていませんので、これが実現したからと言って、「分かり合える」状況が生まれるかどうかは保証できません。このような抽象的な理念を、人同士が分かり合えるための不可欠な条件であると考えないでください。逆に、そのような理念をわざわざ掲げなくとも、社会的カテゴリーの異なる特定の人と人とが生身での接触経験を深めることによって分かり合えることはあり得ます。難しいですけれどね。

    • 山﨑 悦子
    • 2015年 2月 09日

    中途半端なコメントを書いて失礼いたしました。丁寧な語説明ありがとうございます。少し述べさせていただきます。①「低所得に甘んじる移民によって賃金騒動がひきおこされ、」は、ご説明ですと「低賃金でもいいから多くの移民なり労働者を雇ってもらう」ための「賃金闘争」なのですね。「低賃金に甘んじる移民」の「甘んじる」の内容を読み取れませんでした。②フランスの政教分離の教育はよく知られるところで、日本でも今後の世界を担う若者を育成するために、アジアなどから積極的に留学生を受け入れていく方向にあると聞きます。異文化を了承しあうには教育は、重要なファクターの1つだと私も考えます。現在は、”ヨーロッパの主要国はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉する世俗的・近代的な市民と、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在する妥協不可能な対立意識”とすると、フランスは、どの程度「自由・平等・博愛・民主主義」等の教育がなされているか。「妥協不可能な対立意識が沸騰している」というほどの反目なのだろうか。”ヨーロッパの主要国の世俗的・近代的な市民はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉しているならば、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在するものは妥協不可能ではないはずだと考えます。私には、”ヨーロッパの主要国の世俗的・近代的な市民”は少なくとも「自由、平等、人権、民主主義」において成熟していると思っていると、勝手に感じていました。ここでの成熟は理念に対して市民が、その理念を理解し「判断・行動・責任」が伴うものととらえています。実際は”社会的カテゴリーの異なる特定の人と人とが生身での接触経験を深めることによって分かり合えることはあり得ます。難しいですけれどね。”とまとめていただいたことに尽きるのでしょうね。つたない文章にお付き合いいただいて恐縮です。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

  1. 酒鬼薔薇世代

    2014-6-20

    【激論!酒鬼薔薇世代】私たちはキレる世代だったのか。

    過日、浅草浅間神社会議室に於いてASREAD執筆者の30代前半の方を集め、座談会の席を設けました。今…

おすすめ記事

  1. ※この記事は月刊WiLL 2015年4月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ 「発信…
  2. 第一章 桜の章  桜の花びらが、静かに舞っている。  桜の美しさは、彼女に、とて…
  3.  アメリカの覇権後退とともに、国際社会はいま多極化し、互いが互いを牽制し、あるいはにらみ合うやくざの…
  4. 「マッドマックス 怒りのデス・ロード」がアカデミー賞最多の6部門賞を受賞した。 心から祝福したい。…
  5. 多様性(ダイバーシティ)というのが、大学教育を語る上で重要なキーワードになりつつあります。 「…
WordPressテーマ「AMORE (tcd028)」

WordPressテーマ「INNOVATE HACK (tcd025)」

LogoMarche

ButtonMarche

TCDテーマ一覧

イケてるシゴト!?

ページ上部へ戻る