10月2日 高橋是清が経済再生に成功したヘリコプターマネー
- 2016/10/13
- 社会, 経済
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高橋是清が行った日銀の国債引受がヘリコプターマネーではないと主張する人がいる。引き受けた国債の大部分はその後市場で売ったからという理由からだ。その議論が間違いであることは世界大恐慌の後の日本とドイツの経済を比べるとよく分かる。両国共、中央銀行に国債を買い取らせ資金を得て財政を拡大し、急速に景気を回復させた。回収しないヘリコプターマネーだ。
それを行った中心人物は日本では高橋是清大蔵大臣であり、ドイツではヒャルマル・シャハトであった。両国共多額の公債を発行し、多くは軍備拡大に使われている。高橋もシャハトも、公債を発行し過ぎるとインフレが進むことを警戒し、発行額を制限しようとした。
これに反発した軍の一部の将校により、1936年高橋是清は暗殺された。いわゆる2・26事件である。一方シャハトは激怒したヒットラーにより1937年11月に経済相と全権委員を解任されている。そしてこの2人が去った後、軍拡はますます進み戦争へ動きは誰にも止められなくなっていた。
日本もドイツも、軍備拡大を行いながら、インフレは抑えようとしている。当時は現在ほど物があふれているわけでもなく、物不足になったとき、それを補うほどの輸入もできなかったからインフレになりやすい経済状況にあった。そのため限られた資金を国民から軍事費へと振り向けようと様々な試みがなされている。
ドイツでは貯蓄が奨励された。その中心となったのが全国の貯蓄銀行であった。貯蓄銀行は1931年の改革で独立法人となっていた。政府は「国民貯蓄会議」を設立し、「貯蓄は労働とパンをもたらす。浪費は国家建設のサボタージュ」と宣伝した。「旅行貯蓄」や「オリンピック貯蓄」など特別貯蓄制度も貯蓄熱をあおった。「鉄の貯蓄」という、租税を減免し、戦争勝利の後に払い戻すことを条件とした貯蓄もあった。貯蓄銀行は公債を買い支え戦争財源を提供した。
当時の日本でも1930年から1931年にかけて発生した昭和恐慌だが、高橋是清が日銀の国債引受による大規模な景気対策で経済を立ち直させた。1932─36年の間、日銀が引き受けた国債のほぼ90%は、市中に売却されたという理由で、この資金は回収されたのだからヘリマネではないという反論がある。
しかし一見回収しているように見えるが、これは過度のインフレを抑えるためでもあり、軍事費に資金を回そうという意図もあった。軍事産業に資金が使われれば、例えばその産業で働く労働者の賃金の形で国民に資金が流れるのであり、完全に回収されたわけでなく、やはりヘリマネと言える。
当時の日本は日清・日露・第一次世界大戦と3回連続で戦争に勝利しており、占領地を広げつつあった。欧米諸国(特に大英帝国・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという大東亜共栄圏構想があった。1937年に日中戦争、1939年からは第二次世界大戦が始まり「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」という標語がいたるところで見られ、国民合意の上で国民生活を一次的に犠牲にしても軍事中心の財政政策を行うことになった。
両国共不況からの脱却には成功したが、輸出入額は少なく、資源不足に陥り、資源獲得のため戦争へと突入してしまった。現在の日本はヘリマネでデフレ脱却は簡単にできる。物余りの時代、ハイパーインフレはあり得ないし、日銀が長期金利を0%に固定するのだから国債の暴落もない。
小野盛司
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