宮崎駿アニメの構造〜ちぐはぐをつなぎ合わせる「動き」〜
- 2014/11/4
- 文化
- ジブリ解説, 宮崎駿
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3)ばらばらな関係
ばらばらなのは、空間にまつわるものだけではない。人同士の関係もばらばらである。それは、家族という枠組みを通すとよく見えてくる。
『千と千尋の神隠し』の千尋の両親は、まともに千尋を見ていないように振る舞うし、千尋も両親に対して何の働きかけもできない。坊も母親である湯婆婆と、母親の双子の姉である銭婆の区別がつけられず、湯婆婆も、坊が銭婆の魔法によって頭(かしら)とすり替わっていることに気づかない。
『ハウルの動く城』でも、ソフィーは義母と帽子店を営んでいるが、義母がソフィーに協力する様子は見られない。また義母は、ソフィーの老婆になった姿を見てもほとんど気にかけていない。ハウルには叔父がいたようだがすでに亡くなっており、彼の城の住人たち―マルクル、カルシファー、ソフィー、カブ、荒地の魔女、ヒン―は、ばらばらな寄せ集め家族である。
千尋たち親子のような、元々一定の秩序内にいるはずの家族が実際はばらばらな方向を向いており、ハウルたちのように、元々ばらばらだった個が集まって家族を作ろうとする。これは、一枚のコインの裏と表なのだ。つまり、家族に中心がないのだ。
千尋にとっても、ハウルやソフィーにとっても、両親の影が薄い代わりに、その世界を取り仕切る女性に強い干渉を受けている。それは千尋の場合は湯婆婆であり、ハウルやソフィーの場合は、ハウルの魔法使いとしての師匠サリマンだ。彼女らは、主人公たちを支配するだけではなく、彼らを受け入れてもいる母性的な存在であるが、その母性は銭婆と荒地の魔女という存在によって、二つに分裂している。宮崎アニメでは、世界に争いを蔓延させるにしろ平和をもたらすにしろ、一つの独裁的な母性が物語の中心になったり方向性を決めたりすることはない。このことは、家族単位に於いても、中心となる母性がないことと関連する。(ちなみに、『崖の上のポニョ』では、ポニョと宗介の母親たちが子供たちの将来を決める話し合いを行なうシーンがあるが、それは画面の向こうの遠くにうかがえる程度の描写になっている。もちろん何を話しているかは全く聞こえない。つまり、世界の方向を決める独裁的母性の判断は、世界の限りなく外側でなされており、主人公たちはそれを感知する必要はないのだ。)
中心のない家族は、「2)ばらばらな空間」で見た統一性のないキャラクター同様、現実の本来の在り方を鋭く切り取っている。家族といえども、自然にあるものではない。自然にあるのは血のつながりだけであり、家族はあくまで社会の制度なのだ。宮崎アニメの家族は、社会制度としての家族に自覚的であり、家族という集団(複合体)を構成しつつも個人(部分)であり続けるという、自然(血縁)と社会(家族制度)のちぐはぐさを持つ家族の本質的なリアリティを体現しているのだ。
4)運動のアクチュアリティ
ところで、空間も空間内での人間関係もばらばらである場合、そこに時間の入り込む余地はない。マンガをひとコマひとコマハサミで切り取り、ばらばらに並べたとしても、時間が流れていると感じるための秩序が見出せないようなものである。『千と千尋の神隠し』も『ハウルの動く城』も、このままでは細部がただ寄せ集まって膨張するだけで、いつかはじけてまたばらばらになってしまう。そこへ一定の方向性をつけ、全体を導いていくのが、宮崎アニメの場合は「動き」である。
『千と千尋の神隠し』では、千尋が異世界へ迷い込み夜になってしまった直後、彼女の体が透け始める。消えかけていたところをハクに助けられ、そこから状況を打開するとき、千尋とハクはひたすら走り続ける。仕事を求め釜爺のいるボイラー室へ向かうときも、千尋は長い階段を急降下し続ける。湯婆婆が千尋を雇うことをなかなか承知しないとき、この窮地を救うのは、突如扉を蹴破り暴れだす坊の動きである。また。ハクが初めて龍の姿で千尋の前に現われたのも、無数の紙のトリに追われ激しく逃げ惑っているときであった。カオナシの横暴な振る舞いを止め、千尋が銭婆の元へ赴く転換点となる地点には、カオナシと千尋の湯屋中を巻き込む追いかけっこがあり、千尋が、ハクとの繋がりを示す過去の記憶を掴むのも、ハクの背に乗って急降下または飛翔しているときである。
『ハウルの動く城』でも、ハウルとソフィーが初めて出会った直後、二人は急上昇し空中歩行をする。荒地の魔女がソフィーに魔法をかけ90歳の老婆にするときも、猛スピードで彼女の体を駆け抜ける。ハウルが、それまでと違う弱い一面を見せるとき、風呂場から階段を駆け下りてくる。ハウルとソフィーがより深い繋がりを持つ転換点には、サリマンの元から逃亡する際の急上昇、急降下、飛翔という大きな動きが連続し、対立していたはずの荒地の魔女とサリマンの使い犬ヒンを連れて、ソフィーが飛行機ごと城に突っ込むことで、彼らは逆に家族となる。そして、ハウルとソフィーがお互いを強く思いやっていることが分かるのは、空襲とサリマンの追手に襲われ逃げのびた直後であり、ソフィーがハウルとカルシファーの契約内容を知るとき、彼女は流れ星を追うように走り出す。
ここで、千尋とハウルに共通する「階段を駆け下りる」という動きを考えてみよう。千尋の場合この動きは、それまでの非力な千尋から異世界で働いていこうとする千尋への転換点の位置にある。一方ハウルの場合は、恐ろしい魔法使いとしてのハウルから成長をやめた子供としてのハウルへと、彼の本質が明らかになっていくターニングポイントの位置にある。どちらも「下りる」という動作が二人のマイナス面を暴露しつつも、それを越えるほどの「駆ける」という動作でプラス転換を図っているかのようである。また、マイナス面を暴露するということは、彼らが今どうであるかという現在と、もともとどういう人間であったかという過去がそこで取り結ばれてもいるのだ。
もう一つ共通の動きとして、「二人で上昇する」というものがある。千尋とハク、ハウルとソフィーがそれぞれ「二人で上昇する」と、彼らの結びつきは強くなる。それは、二人の現在と未来を繋ぐものでもある。つまり、動きが時間を時間足らしめているのだ。
このように、物語が次の展開へ移るとき、必ず宮崎アニメ独特の魅力的な動きが現われる。それは、階段を駆け下りたり走ったりという現実にもある動きであるか、龍の背に乗ってあるいは生身のまま上昇したり下降したりするという非現実的な動きであるかに関わらず、リアリティよりもアクチュアリティを観る者に呼び覚ます。まさに今ここで、それが起こっているというアクチュアリティである。アクチュアリティは、今ここ、というように、時間と空間を繋ぐ。ばらばらだった空間や人間関係を、卓越した描写力で生み出された動きによって、時間へと接続するのだ。それが物語を動かす原動力となっている。
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