思想遊戯(5)- 桜の章(Ⅴ) 散る桜

第ニ項

 僕と一葉さんは、並んで校内を歩く。一葉さんは少し早歩きで、僕は彼女の後を付いていく形になる。彼女から散歩に誘われたので、僕は自分からは話題を振らずに、彼女が話しかけてくれるのを待っていた。
 しばらく歩き続けたけれど、彼女は何も話さずに歩く。僕は、少し不安になる。僕から何か話しかけようか迷っている内に、学内でも比較的大きな桜の場所までやってきた。桜は、もうかなり散ってしまっている。彼女は、振り返って僕を見た。
一葉「智樹くんは、虚無感に襲われるとき、ありますか?」
 彼女は僕に問いかける。
智樹「どうでしょうか・・・。たまにはあると思いますけど。」
一葉「それは、どんなときでしょうか?」
 今日の一葉さんは、どこか妖しい気配がする。
智樹「えっと、疲れたときとか…。」
一葉「そうですね。」
 彼女は静かに妖しく微笑む。
智樹「一葉さん?」
一葉「智樹くん。ニヒリズムって、何でしょうか?」
 僕は、自分の記憶を探りながら答える。
智樹「たしか、19世紀のヨーロッパで、人間が卑小化して、生の意義を失った状況のことだったと記憶していますが・・・。」
一葉「そうですね。智樹くんは、ニーチェとか好きなのでしょうか?」
 僕は、なんと答えたらよいのか迷ったけれど、素直に思ったままを語った。
智樹「高校のとき、倫理の授業があるじゃないですか? 僕は倫理の授業が好きで、そのときにニーチェとか、ソクラテスとか習って、大学に入ったら色々と読んでみようと思っていたんです。ニーチェって、にわかな知識ですが、神は死んだとか言って、なんか格好良いなとかは思っていたんで・・・。」
 彼女は僕の答えを聞き、少し考え込んだ。
一葉「智樹くん。桜が散っていますね。」
 僕は、虚を突かれた。
智樹「・・・ええ、そうですね。」
一葉「智樹くんは、桜が散っているのを見て、ニヒリズムを感じますか?」
 僕は、少し考えてから答えた。
智樹「ええと、感じないと思います。まだあまり良く分かっていないのですけれど。ですから、もっと勉強していく内に感想も変わっていくのかもしれません。」
 彼女は、いつもより低い声でつぶやいた。
一葉「虚無と無常は違う・・・。」
 僕は、何を言ってよいか分からず、黙って彼女を見ていた。彼女は、僕に背を向けて言葉を発する。

散る桜 残る桜も 散る桜

 先ほどよりも高く透き通る声で、彼女は言葉を発した。
一葉「良寛という僧侶の句です。この句を聞いた者は、虚無を感じるのか、それとも無常を感じるのか、それとも何も感じないのか。その相違によって、人は異なる道へと踏み出すことになるのでしょう。」
 彼女は正面から僕を見詰めた。手を後ろで組み、首を少し傾け、薄く微笑んだ。その微笑みは、いつもとは違う不思議な魅力を備えていた。
 彼女の微笑みに、僕は立ちすくむ。彼女は、にっこりと僕に微笑んだ。僕は、立ちすくむ。何故? その笑顔に、僕は何を見たのだろうか。彼女の笑顔に立ちすくむ? 立ちすくんだ僕?
 僕は、自分の反応に驚いた。僕は、何故、立ちすくんでいるんだ?
 桜の花びらが、静かに舞っている。桜の美しさは、彼女に、とても良く似合う。
 体を緊張で強張らせている僕から離れ、彼女は、道端の石を拾う。その石は、彼女の手のひらにすっぽりとおさまった。まるで、彼女の手のひらにおさまるために、そこに、その形であったかのようだ、と僕は思った。
 たまたま偶然、彼女の手のひらにおさまる石がそこにあったのではなく、彼女の手のひらにおさまる石がなければならなかったから、石はそこになければならなかった・・・。だから、その石がそこにあることは、偶然ではなく必然・・・。
 ・・・・・・僕は一体、何を考えているんだ・・・?
 彼女は、その石を持ったまま、僕に近づいて来た。僕は、視線だけをその石に向ける。体は、動かない。まるで金縛りにあったかのようだ。
 僕と彼女の距離が、手を伸ばせば互いに触れることができるところまで近づいて、彼女の歩みが止まった。僕は、視線だけを、彼女の持っている石から、彼女の顔へ移す。
 彼女は、優しく微笑んでいた。僕は笑おうとした。笑おうとしたけれど、実際に笑えていた自信はまったくない。
 桜の花びらが、静かに舞っている。
 桜の美しさは、彼女に、とても良く似合う。
 彼女は、僕の瞳を見て、持っていた石を胸の前で、僕に見えるようにかざして言った。
一葉「この石は“虚無”です。」
 不思議な言葉だった。
 彼女が、何を言っているのか分からない。
 彼女は、何を言っているのだろう?
 僕に、何を伝えたいのだろう?
 そして、なぜ僕は、彼女の言っていることが分からないのだろう?
 僕は、とても悲しい気持ちになった。ああ、僕に理解力がなくて、彼女の言っていることが分からない・・・・・・。
 彼女は僕を見つめたまま、腕を伸ばした。僕は、彼女から視線を外せない。身動きも取れない。
 トンっ。
 彼女の持つ石が、僕の胸に当たった。
 軽く当たったはずだ。痛みはなかった。けれど、その衝撃が、僕を揺らした。
 僕は、グラグラした。
 その刻は、どれくらいだったのだろう?
 僕の意識が覚醒し、体験した時間が引き延ばされる。この一連の出来事が、ひどく長い時間に感じられる。でも、多分、そんなに長かったはずはない。
 僕はこのときのことを、きっと、何度も思い返すことになるだろう。
 彼女は、僕を見ていた。僕は、何故か彼女から目をそらし、僕の胸に当たっている石へと視線を移した。目と首だけが、そこだけが動く自動人形のように、いびつに動いた。
 石は、僕の胸から離れた。
 その石は、僕と彼女の中間で止まった。僕の目は石に引き付けられ、その結果、石と彼女が同じ視界に入る。
 桜の花びらが、静かに舞い落ちている。彼女は、首を少し傾けて微笑んでいる。
 その微笑は、僕にとって命令だった。僕は、手を差し出す。その手が震えているのかどうかも、僕には分からない。
 動悸が聞こえる・・・。
一葉「はい。」
 そういって、彼女は持っていた石を、僕の手のひらに乗せた。
一葉「じゃあ、さようなら。」
 そう言って、彼女は去っていった。僕は、馬鹿みたいに立ち尽くし、いつまでも彼女の後ろ姿を見つめ続けていた。桜の舞う道を、彼女は静かに歩み去っていった。
 そこから先の記憶は、思い出そうとしても思い出せない。だから、おそらく彼女はそれから振り向くことなく去っていったのだと思う。僕は、彼女に手渡された石を持って、住まいへ無事に帰り着いたのだと思う。我に返ったときには、ベットの上にいたからだ。あの石は、机の上に置いており、僕はベットの上から、それをぼんやりと眺めていた。

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西部邁

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