思想遊戯(2)- 桜の章(Ⅱ) 日本神話
- 2016/3/11
- 小説, 思想
- feature5, 思想遊戯
- 29 comments
第四項
上条さんは、今日も静かに本を読んでいた。僕は、本を読んでいる彼女に話しかけた。
智樹「上条さん。こんにちは。」
一葉「・・・・・・こんにちは。」
彼女は本から目を離し、僕を見た。
智樹「上条さん。この前、サクヤ姫とイワナガ姫の話をしたじゃないですか。そのことについて、社会思想を専門としている教授と話をしてみたんですよ。」
とも樹「教授・・・。誰でしょうか?」
一葉「知ってるでしょうか? 三宮教授って人なんですけど・・・。」
智樹「三宮教授・・・。それで、どのような話をされたのですか?」
彼女が三宮教授を知っているかは分からなかったが、僕が教授と話した内容には興味を示してもらえたみたいだ。僕は、彼女の隣に座る。
智樹「サクヤ姫とイワナガ姫の話は、バナナ型神話と呼ばれているのはご存じですか?」
一葉「はい。知っています。」
そう言って、彼女はにっこりと笑った。なんだ、知っていたのか。ちぇっ。
智樹「それで、バナナ型神話つながりで、『旧約聖書』の話とかもしたんですよ。」
一葉「エデンの園の話でしょうか?」
僕は、かなり驚いた。
智樹「すごいですね。正解です。」
一葉「正解ですか。生命の樹と知恵の樹の話ですよね?」
智樹「・・・そうです。」
僕は彼女の知性を侮っているつまりはなかったのだけれど、改めて感心した。彼女の知識の範囲は、かなり幅広いのかもしれない。
ここは、彼女に三宮教授の意見を紹介してみることにしよう。
智樹「三宮教授と話して、面白いことを教えてもらったんですよ。」
一葉「アダムとイブの話ですか?」
智樹「そうです。アダムとイブは、ヘビにそそのかされて禁断の果実に手をつけるじゃないですか? でも、実はヘビは、嘘を吐いているわけではないんですよ。」
彼女は、僕の目を見つめて黙ってしまった。僕は、彼女の反応をうかがった。しばらく反応がないので、続きを話すことにした。
智樹「えっと、神様は、知恵の樹の果実について、食べると死んでしまうとアダムとイブに言っているわけです。それに対してヘビは、食べても死なないこと、それに、食べると神のように善悪を知るようになることをイブに語るんです。それでイブは、その果実がおいしそうに思えてきて、アダムと一緒に食べてしまうんです。」
彼女は静かに僕を見た。
一葉「つまり、嘘を吐いているのは神様で、ヘビは真実を述べているだけだと。」
彼女は、この話の本質をずばりと言い当てた。
智樹「・・・そうです。なかなかに、面白いでしょう。」
一葉「はい。そうですね。」
彼女は、うなずいた。
智樹「ヘビは、何を考えていたんでしょうね?」
この質問を、僕は彼女にたずねてみたかったのだ。
一葉「ヘビは、実はサタンだったという解釈がありますね。」
智樹「サタン・・・。悪魔の王様でしたっけ?」
一葉「そうです。キリスト教では、神の敵対者です。」
そう言うと、彼女は分厚い革製の手帳を取り出した。以前も、彼女は手帳に書かれている言葉を使って話していた。色々とメモっているんだっけか。彼女は、手帳をパラパラとめくって言った。
一葉「佳山くんは、アナーキストのバクーニンを知っていますか?」
智樹「・・・知りません…。アナーキスト…。上条さんは…。」
僕が質問するより速く、彼女は答えた。
一葉「私自身は、アナーキズムはあまり好きではありません。」
そう言って、にっこりと笑った。僕は、少しゾクっとした。彼女の笑顔の裏に、何かしらの強い意志が感じられた。
智樹「では、なぜ突然、バクーニン?」
何か、変な返しになってしまった。
一葉「バクーニンの思想はあまり好きではないのですが、『神と国家』という著作に面白い意見があるのですよ。」
智樹「どのような意見でしょうか?」
彼女は、手帳に眼を落とした。
一葉「バクーニンは、こう述べています。〈そこへ登場したのはサタン、あの永遠の反逆者であり、最初の自由思想家であり、世界の解放者である、あのサタンである。彼は、人間に対して、その無知であること、獣のように従順であることの恥ずかしさを教えた。彼は、人間に従順を捨てさせ、知恵の木の実を取って食べさせた。そうすることによって、サタンは人間を解放し、その額に自由と人間性という刻印を押したのである〉と。」
僕は、彼女が何を言いたいのか分かった気がした。
智樹「なるほど。つまり、神様の言いつけを守っている間は、人間は神様の奴隷だったと。その奴隷の地位から人間を解放したのが、ヘビ。つまり、サタンだった、と。」
一葉「たいへん良くできました。」
彼女は薄く微笑んだ。僕は嬉しくなる。
智樹「上条さんは、ヘビの役割をそう解釈しているのですね?」
一葉「物語を聴く者の思考によって、物語は異なった姿を見せます。神の加護を失ったと見るか、神の呪縛から解き放たれたと見るか。どちらも魅力的な考え方ですが、私は後者の方に、より共感を覚えます。」
そう言う彼女は、僕には不思議な魅力をもって映る。
話が一段落したと思って別れを告げようとしたとき、彼女の方から話題を振ってくれた。
一葉「ところで、生命の樹と知恵の樹の話をバナナ型神話と見なすのは、私には違和感があるのです。」
智樹「どういうことですか?」
一葉「聞きたいですか?」
智樹「是非。」
彼女は薄く微笑んで、嬉しそうに語り出した。
一葉「アダムとイブの話をバナナ型神話として見たとき、生命の樹による永遠の命と、知恵の樹による善悪の知識の選択が問題となります。人間が、生命の樹の果実ではなく、知恵の樹の果実を選んだことにより、永遠の命を失い、その代わりに善悪の知識を得た・・・。」
智樹「そういう話ではないんですか?」
一葉「私は、違うことを考えています。」
智樹「どういうことでしょうか?」
一葉「神は最初、知恵の樹の果実を取ることを禁止しており、生命の樹の果実の方は、明確に禁止していなかったのです。ですから、生命の樹と知恵の樹の二者択一ではなかった可能性があるのです。」
僕は驚いた。僕は、彼女と話をするため、その部分を読んで来たんだ。彼女は、当然ながら、突然振られた話のはずだ。それなのに、僕よりも深く話すことができている。僕は、彼女と僕の間にある隔たりの大きさをあらためて思い知った。
彼女は、彼女の説を続ける。
一葉「原文の通りに読むなら、神は最初、知恵の樹の果実を取ることを禁止しており、生命の樹の果実を取ることは禁止していませんでした。そして、神は、アダムとイブが知恵の樹の果実を食べ、善悪を知る者となった後に、生命の樹の果実を食べることを恐れたのです。」
僕は、彼女の言うことがまだ分からない。彼女は、何かを意図している。それが、まだ分からない。でも、彼女は何か重要なことを言おうとしていることは分かった。
彼女は、静かに語り続ける。
一葉「最初、生命の樹の果実を食べることは、禁止されていませんでした。ということは、アダムとイブは、実は、生命の樹の果実を食べていたのではないでしょうか? 神は、善悪を知る前のアダムとイブを必要としていたのです。そのために、アダムとイブは生命の樹の果実を食べ、神のために永遠に生きるようになっていたのです。」
僕は、彼女が恐ろしく感じられた。彼女は、僕の恐怖を知ってか知らずか、僕を見つめたまま話を続ける。
一葉「神は、知恵を付ける前のアダムとイブを愛していたのです。知恵をつけない限りで、神はアダムとイブを愛していたのです。しかし、アダムとイブが知恵をつけてしまったら、神はアダムとイブを今まで通りに愛することはできなくなってしまう。神は、知恵をつけたアダムとイブが、生命の樹の果実を食べ続けて、永遠の命で居続けることを許さなかったのです。神は、アダムとイブをエデンの園から追い出しました。アダムとイブは、すなわち人間は、エデンの園を追放されて、必ず死ぬようになったのです。」
僕は、おそるおそる話した。
智樹「でも、それはおかしいじゃないですか。それなら、神は、生命の樹は作っても、知恵の樹は作らなければよかったんじゃないですか?」
彼女は、薄く微笑んだ。
一葉「神は、アダムとイブを愛していました。目の前に知恵を得る方法があるのに、それに手を出さずいる二人を。」
彼女の声は、透き通っていた。
智樹「それなら、ヘビは・・・。」
一葉「ヘビがサタンであるかどうかは、私には分かりません。でも、もし私がヘビなら、同じ言葉を吐いたことでしょう。」
智樹「上条さんが、ヘビだったら・・・。」
一葉「神は、人間が善悪の知識と永遠の命を得ることを許しません。なぜなら、それは、人間が神になることだからです。神は、人間が愚かであることを楽しみ、神と同じ知性を持つことを憎むのです。生命の樹と知恵の樹が、互いに相反する性質を持つのなら、それは神の意図に由来します。」
智樹「それは・・・。」
一葉「自分と同じ知性を嫌う神、これは、人間性の顕著な特徴の一つです。」
そう言って、彼女は微笑むのだ。
僕は、ふと思ったことを口にした。
智樹「そういえば、ヘビ自身は、知恵の樹の実を食べていたのでしょうか?」
そういった僕を、彼女は不思議そうに見詰めた。
一葉「それは、・・・・・・面白い視点ですね。」
そう言って、彼女は静かに微笑んだ。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。