『日本式正道論』第三章 仏道
- 2016/10/20
- 思想, 文化, 歴史
- seidou
- 2,425 comments
第八節 近代仏教
近代においても仏教の流れは続いていき、仏の道について語られています。
第一項 清沢満之
清沢満之(1863~1903)は、近代の仏教思想家で真宗大谷派の僧です。東西諸思想に通じ、真宗信仰に新たな地平を開きました。
『精神主義』において、〈道は近いところにあるのに、迷った人はそれを遠いところに求める。宗教は目前にあるのに、惑った人はそれをほかの物に求める。足もとを見定めることを知らない人は、宗教を知らない世間人である〉とあります。また、〈何が修養の方法であるか。ほかでもない、すべからく自己を省察すべきである、大道を知るべきである。大道を知れば、自己にあるものに不足を感じることはないであろう。自己にあるものに不足を感じなければ、他人にあるものを求めないであろう。他人にあるものを求めなければ、他人と争うことはないであろう。自己に充足して、求めず、争わなければ、天下のどこにこれより強いものがあろうか、どこにこれより広大なものがあろうか〉とあります。そこで、〈絶対他力の大道を確信すれば足りる。それで大道はけっして彼らを捨てないであろう〉と語られています。
第二項 鈴木大拙
鈴木大拙(1870~1966)は、近代の仏教学者です。
既成の宗派敵対立場を超えて、禅・浄土・華厳などの大乗仏教の諸思想について幅広く論じました。また、禅を中心に欧米に仏教思想を紹介しました。
『無心ということ』において、〈それなら道とは何かというに、これは「無心是道」または「道本無心」である。無心を了すれば、そこに自ら道があらわれる。こうなれば、仏は即道これなりと結んでよい。道もと無心、無心是れ道――そして即心是仏、心即無心という連鎖ができ上れば、道即是仏、仏即是道で、いずれも畢竟無心であるという次第にならなくてはならぬ。無心是れ道、無心是れ仏、いずれでもよいから、今かりに道と言っておいて、それですべてを代表させる〉とあります。そこで、〈無心是れ道で、心がなくなれば道もまた無である。そこに心と道と一如の世界が成り立つ。道も心も無の世界で一如となるのである。この一如の場所、身心是道ということができる、また道是れ身心ということができる〉と語られています。
『日本的霊性』においては、〈禅者の言葉に「平常心是道」ということがある。また「無事於心、無心於事」[心に無事で、事に無心なれ]という言葉があるが、これでなくてはならんのだ。ここには生死ということはないのである。なんでもすべきこと、そのことに成りきれば、無心である。無心であれば、無事である。それが平常心である。そこに道がある。この道さえ踏んでゆければ、非常時には非常時であり、平時には平時である〉とあります。
※本連載の一覧はコチラをご覧ください。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。