『日本式正道論』第三章 仏道

第七節 近世仏教

 近世においても仏教の流れは受け継がれ、仏の道について語られています。

第一項 日蓮宗の日奥

 日奥(1565~1630)は安土桃山・江戸初期の日蓮宗の僧です。
 『宗義制法論』では、〈それ世間と出世、その道、異なるといへども、倶に法度を以て、最も要枢となす。法度にあらざるよりは諸道立つことなし〉とあります。世間と出世とは、俗世間と出世間のこと、あるいは俗人と僧侶のことです。どちらの道でも法度が重要だと述べています。また、〈それ仏法を習はん人は、先づ五常の道を学んで、世間の義理を知るべし。しかる所以は、仏法は至つて深く、人の智は極めて浅し。故に先づ世間の道を知れば、仏法に入り易し〉と語り、日常と仏教を結びつけて論じています。世間の道を知れば、仏法にも入りやすいとされています。

第二項 臨済宗の沢庵

 沢庵(1573~1645)は江戸初期の臨済宗の僧です。
 沢庵の『不動智神妙録』には、〈今少し能く知れば、凡夫の信ずるにても破るにてもなく、道理の上にて尊信し、仏法はよく一物にして其理を顕す事にて候。諸道ともに斯様のものにて候〉とあります。諸々の道は、道理の上で尊び信じ、そこにおいて理をあらわすのです。そこでは、〈仏と衆生と二つ無く。神と人と二つ無く候。此心の如くなるを、神とも仏とも申し候。神道、歌道、儒道とて、道多く候へども、皆この一心の明なる所を申し候〉と語られています。道に違いはなく、心の明らかなるところを道だと述べているのです。
 『玲瓏集』では、〈欲念を離れて岩木の如くにては、万事を作す事ならざる也、欲をはなれすして、無欲の義に叶ふは道也〉とあります。欲望を離れるといっても、岩や木のようになってしまえば何もできません。欲をただ離れるのではなく、義に叶うために無欲になるのが道だとされているのです。

第三項 臨済宗の盤珪永琢

 盤珪永琢(1622~1693)は、江戸時代前期の臨済宗の僧です。
 『盤珪禅師語録』には、〈孝の道に叶へば則佛心でござる〉とあります。仏のこと以外にも、〈侍は常に義理を第一といたし、一言にても相違あればとがめ、間のぬからぬ所が、侍の道でござる〉と述べており、〈商ひの道にて利を得まするは、我等が一人に限りまする事でもござらぬ〉と語っています。

第四項 浄土宗の大我

 大我(1709~1782)は、浄土宗の僧です。
 著作である『三彝訓』で神儒仏の一致を説いています。彝は、のりで、守るべき教えです。『三彝訓』には〈皇天自ら三道を立て、以て国を治め民を安んずるにおいては、謂ひつべし、至れり尽せりと〉とあります。皇天は、天皇・皇室のことです。三道は神儒仏の三教を指します。近世初期の三教一致論には、儒教・道教・仏教の一致を説くものが多くみられますが、享保頃から以後になると、神儒仏一致を説くものが見られるようになります。

第五項 浄土真宗の仰誓

 仰誓(1721~1794)は、江戸時代中期の浄土真宗の僧です。
 仰誓の『妙好人伝』では、〈いにしへのかしこかりつる跡とひて仏の道にすすめとぞおもふ〉とあります。古の賢人の辿った跡を問うことによって、仏の道に進もうと語られています。

第六項 曹洞宗の良寛

 良寛(1758~1831)は、江戸後期の曹洞宗の僧で歌人です。諸国を行脚し、生涯寺を持たずに隠棲(いんせい)して独自の詩を残しました。
 『良寛道人遺稿』には、〈目前は道に非ず、道は目前〉とあり、自身の方から道を見つけたわけではなく、道の方から目に入ってきたと語られています。その道に対し、〈香を焼(た)いて仏神を請じ、永く道心の固きを願う〉と述べ、道心を強く持つことを願っています。
 その道については、〈是非は始めより己に因る、道は固より斯の若くならず〉とあります。是非は自分本位ですが、道は決してそんなものではないとされています。そのため、〈仏は是れ自心の作なり、道も亦有為に非ず〉と述べられています。仏は自分の心が造るものであり、道もまた無常ではないと語られているのです。

第七項 浄土真宗の竜温

 竜温(1800~1885)は、東本願寺派京都円光寺の僧です。
 『総斥排仏弁』では、〈別シテ神道ハ吾国ノ大道、儒ハ世間聖人ノ立ルトコロ、吾仏教ニオヰテ、世間教ト同一体ナレバ、聊モソノ道ヲサシテ邪ナリト云ニハ非ズ。ソノ道ノ正意ヲ伝ズシテ、熾ニ仏法ヲ憎嫉スル徒類ハ、則チ吾ガ法城ヲ破ントスル怨敵ナリト謂ベシ〉とあります。神道は日本の大道であり、儒教は世間の聖人の立てるところであり、仏教は世間の教えと同じなので、仏教を邪ということはできないと述べています。道の正しい意味を伝えないで、その道を憎むことは間違いなのだとされています。

第八項 浄土真宗の徳竜

 徳竜(?~?)は東本願寺派無為信寺の僧です。
 『僧分教誡三罪録(1884)』では、〈タヾ王法仁義ノ道ニ順ジテ、此世ヲスゴセヨト教ヘタマフガ、浄土真宗ノ掟ナリ。コノ道理ヲコヽロエザレバ、罪アリナガラ助ルイハレヲ知ルベカラズ〉とあります。浄土真宗の掟として、王法仁義の道にしたがって生を送るべきことが語られています。
 掟と道の関係については、〈国法ニテモ、スベテ定メオクトコロノ法則ヲ掟ト称ス。掟ハ、道ニソムカヌヤウニ立タルモノナレドモ、仁義孝悌ノ道ハ、百王国ヲ異ニスルトモ、千歳時ヲ隔ツトモ、改ラザルノ道ナリ。掟ハ、其国ニ従ヒ、ソノ時ニ応ジテ、政ヲ改ルコトアリ。故ニ、国家ニアリテハ、其国其時ノ掟ニシタガハズンバアルベカラズ〉と語られています。道は国家を超えて通じるものであり、掟は国家毎に定めたり改めたりするものとして考えられています。

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