『日本式正道論』第三章 仏道
- 2016/10/20
- 思想, 文化, 歴史
- seidou
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第二項 真言宗の空海
空海(774~835)は、平安初期の密教家で、真言宗の開祖です。唐で学び、日本に初めて体系的密教をもたらしました。高野山に金剛峰寺を建立し、京都に綜芸種智院を開きました。
『遍照發揮性靈集』では、〈物の荒癈は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り〉と語られています。では、道はどういうものかというと、〈人を導くは教なり。教を通するものは道なり。道、人無ければ擁(ふさが)り、教、演ぶること無きときは癈(すた)る〉とされています。ここでは、教えを挟んで人と道との相互応答が見られます。人を導くのは教えで、教えを通すものは道です。逆に言うと、道は教えを通し、その教えは人を導くものです。しかし、道は人がいなければ塞がり、教えも人がいなければ廃れます。道と教えと人は、互いに支え合っているのです。
また、〈又古人、道の為に道を求む。今の人は名利の為に求む。名の為に求むるは求道の志とせず、求道の志は己を忘るる道法なり〉と述べられています。名利とは名誉と利益のことで、道法とは悟りに至る正道の法のことです。
また、『秘密曼荼羅十住心論』の[巻第八]には、〈一実の理、本懐を此の時に吐き、無二の道、満足を今日に得〉とあります。一実の理・無二の道とは、ともに法華一乗を指します。仏の本懐たる一日の理が開示され、法華一乗の道が明かされて、仏の所願が満足されたことが述べられています。
『秘蔵宝鑰』には、〈有・空、即ち法界なりと観ずれば、則ち中道正観を得。此の中道正観に由るが故に、早く涅槃を得〉とあります。現世は仮りの有であり、空であり、そのまま法界の相であると観察されれば、そこに縁起による中道の正しい見方が生じるというのです。この中道の正路によって涅槃に到達できるとされています。ここでいう中道とは、囚われた心を離れて公正に現実を見極めた上で正しい行動を取ることを意味します。また、〈仏法存するが故に、人皆眼を開く。眼明らかにして正道を行じ、正路に遊ぶが故に、涅槃に至る〉ともあります。仏法により人間は心の眼を開くことができ、それによって正しい道を進むことができて、悟りに至ることができるというのです。
第三項 天台宗の源信
源信(942~1017)は、平安中期の天台宗の僧侶です。往生極楽に関する経論の要文を集めた『往生要集』を著し、念仏の実践を勧めました。
日本における地獄の思想は、空海の『三教指帰』や景戒の『日本霊異記』もありますが、源信の『往生要集』の影響が非常に大きいと言えます。『往生要集』では、八大地獄などが詳述され、地獄に堕ちることに対する恐怖心から、浄土信仰の隆盛の大きな要因となりました。
『往生要集』の中に、〈一には地獄、二には餓鬼、三には畜生、四には阿修羅、五には人、六には天、七には惣結なり〉とあり、六道について記述されています。七番目の惣結は、六道を総括するということです。六道とは、地獄から天までの六つの世界のことで、六趣とも言います。衆生がその業(ごう)によって生死を繰り返す迷いの世界です。『往生要集』における記述から、六道をまとめると次のようになります。
[図3-1] 『往生要集』の六道
以上の六道に対して、七番目の惣結(六道を総括すること)については、〈第七に、惣じて厭相を結ぶとは、謂く、一篋は偏に苦なり。耽荒すべきにあらず〉とあります。一篋とは、地・水・火・風の四大結合によってできた人間の身体を箱に例えたものです。また耽荒とは、度を越して楽しみにふけることです。つまり、六道の厭うべき相を総括するなら、地・水・火・風の四つの要素の結合から成るこの身は、まことに苦の連続なのだと考えられているのです。度を越して楽しみにふけるべきではないとされています。なぜなら、生・老・病・死の四つの苦しみは必ずやってくるもので、逃げ隠れしてやり過ごせるものではないからと説明されています。
『往生要集』には正道についての記述もあり、〈麁強の惑業は、人をして覚了せしむれども、ただ無義の語は、その過顕れずして、恒に正道を障ふ。善く応にこれを治すべし〉とあります。麁強の惑業とは、あらくはげしい煩悩のことです。つまり、荒っぽい強烈な煩悩は、人がすぐこれに気づいて注意しますが、無意味な語の場合は過ちがはっきりとはあらわれないので、常に正道を妨げるというのです。だから、このことにはよく気をつけて改めるべきだというのです。
また、〈不退転の位に至るに難易の二道あり。易行道と言ふは即ちこれ念仏なり〉という言葉もあります。ここでいう二道とは、難行道と易行道です。難行道とは、自らの修行実践によって悟りに至る道です。易行道とは、難行に対する容易な行で、他力念仏に立つ道です。自力修行の難行に対するものとして人々に勧められています。ここでいう自力・他力とは、念仏行において称える功徳をわが功績とみなすのが自力念仏で、我の上に現れた仏の働きかけと見るのが他力念仏です。注意が必要ですが、他力とは他人の力ではなく、自力の根源をなす仏の力を意味します。
第四項 西行
西行(1118~1190)は平安後期の僧であり歌人です。鳥羽院に北面の武士として仕えていましたが、出家して草庵に住み、諸国を行脚して歌を詠みました。
西行の詠歌を収めたものに『山家集』や『新古今和歌集』があります。〈ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎのもち月の頃〉という歌はあまりにも有名です。『山家集』の中には、六道について詠ったものがあります。
[地獄] 罪人のしぬる世もなく燃ゆる火の薪なるらんことぞかなしき
[餓鬼] 朝夕の子を養ひにすと聞けば苦にすぐれてもかなしかるらん
[畜生] 神楽歌に草取り飼ふはいたけれど猶その駒になることは憂し
[修羅] よしなしな争ふことを楯にして怒りをのみも結ぶ心は
[人] ありがたき人になりけるかひありて悟り求むる心あらなん
[天] 雲の上の楽しみとてもかひぞなきさてしもやがて住みしはてねば
また、道について詠じたものもいくつか挙げておきます。
思ふともいかにしてかはしるべせん教ふる道に入らばこそあらめ
遁れなくつひに行くべき道をさは知らではいかゞ過ぐべかりける
あくがれし心を道のしるべにて雲にともなふ身とぞ成ぬる
いとゞしく憂きにつけても頼むかな契し道のしるべ違ふな
厭ふべき仮の宿りは出でぬなり今はまことの道を尋ねよ
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