『日本式正道論』第三章 仏道

第二節 鎌倉仏教・浄土系

 日本には、7世紀前半に浄土教が伝えられました。
 源信が『往生要集』を著して天台浄土教を盛んにし、平安末期から鎌倉時代に入ると、法然が浄土宗を、親鸞が浄土真宗を、一遍が時宗をそれぞれ開きました。これら浄土教の各宗は、それぞれの発展を遂げ、日本仏教における一大系統を形成して現在に及んでいます。

第一項 浄土宗の法然

法然(1133~1212)は、鎌倉時代の僧侶で、浄土宗の宗祖です。称名念仏のみで浄土往生ができるという専修念仏の教えを唱え、鎌倉仏教の祖師たちに多大な影響を与えました。
 法然の主著は『選択本願念仏集』です。この中で、〈曇鸞(どんらん)法師(ほっし)の往生論の注に云く〉とし、〈二種の道あり。一は難行道、二は易行道〉と示されています。易行道の易とは安易・平易の意味です。ですから易行道とは、誰でも行じうる道のことです。ここから法然は〈難行道は即ちこれ聖道門なり。易行道は即ちこれ浄土門なり〉と述べています。ここから、〈すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし〉と、聖道門を捨てて浄土門に帰せよ、という浄土宗の基本的立場が主張されています。

[図3-2] 『選択本願念仏集』の二種の道

 聖道門とは、自力の行をはげんでこの世で悟りを開くことを目指す聖人の道です。浄土門とは、阿弥陀の本願を信じて念仏して浄土に生まれ、来世に悟りを得ようとする凡夫の道です。法然の教えでは、易行の念仏が正当化されています。

第二項 浄土真宗の親鸞

 親鸞(1173~1262)は、鎌倉時代の仏教者で、浄土真宗の祖です。法然門下から出て、念仏の信心による浄土往生を説きました。
 親鸞の『教行信証』では、〈世間の道に難あり易あり、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし〉とあり、法然と同じく易行道が正当化されています。
 他にも道について、〈一道は一無礙道なり。無礙は、謂く生死即ちこれ涅槃なりと知るなり〉とあります。一道とは、一つの無礙道であり、無礙とは、いわば生死の迷いがそのまま悟り(涅槃)であると知ることです。親鸞滅後の異端を歎いたといわれる唯円(?~?)の『歎異抄』でも、〈念仏者は無礙の一道なり〉とあります。念仏者(信心の行者)の行く道には礙(さわ)りがない、つまり妨げがないということです。
 『教行信証』の別の箇所では、〈道の言は路に対せるなり。道は則ちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路は則ちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり〉ともあります。つまり、道という言葉は、路に対するもので、道とは、すなわち本願という絶対不二にして真実の近道であり、究極の悟りに達するこの上もない大道だというのです。路とは、すなわち小乗の聖者や仏、さらには菩薩たちが行く路であり、できるだけ多くの善やさまざまな修行が必要な小路のことです。
 『涅槃経』から引用している箇所では、〈道に二種あり。一つには常、二つには無常なり。菩薩の相にまた二種あり。一つには常、二つには無常なり。涅槃もまたしかなり。外道の道を名づけて無常とす、内道の道は、これを名づけて常とす〉とあります。道には二つの種類があるのだと語られています。一つには常住、二つには無常です。菩薩のすがたにも二種類あって、一つには常住、二つには無常であり、涅槃もまたそうなのだとされています。異教の道を無常と名付け、仏教の道は常住と名付けられます。ですから、〈道と菩提および涅槃と、ことごとく名づけて常とす〉とあり、道と悟りとそれに涅槃はすべて常住と名付けられています。
 また、正しい道は平等と関連付けられています。〈正道の大道大慈悲は出世の善根より生ずといふは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とする所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるを以ての故に発心等し、発心等しきが故に道等し、道等しきが故に大慈悲等し。大慈悲はこれ打つ道の正因なるが故に、正道大慈悲と言へり〉とあります。ここの「正道の大道大慈悲は出世の善根より生ず」という部分は、『浄土論』の詩からの引用です。ここで言われていることは、正道の大いなる慈悲が世を捨てし善根より生るというのは、平等の大道について言ったものです。平等の道をさして正道といったわけは、平等がすべてのものの、その本体の姿だとされているからです。すべてのものが平等であるから、起こした菩提心も平等であり、起こした菩提心が平等であるから、道も平等であり、道が平等であるから、広大な慈悲も平等であるとされているのです。そしてこの広大な慈悲は悟りをうる直接の因であるから、正道の大いなる慈悲と言われているのです。

第三項 時宗の一遍

 一遍(1239~1289)は、鎌倉時代後期の仏僧で、時宗の開祖です。衆生済度のため、民衆に踊り念仏を勧め、全国を遊行しました。
 一遍の言行録である『一遍上人語録』には、〈阿弥陀仏はまよひ悟の道たえてたゞ名にかなふいき仏なり〉とあり、悟りの道が語られています。生死については、〈有心は生死の道、無心は涅槃の城なり。生死をはなるゝというふは、心をはなるゝをいふなり〉とあります。有心は物にとらわれた妄念の心で、無心は一切の妄念を離れた心のことです。心の有り様が大事であり、〈心の外に法を見るを名づけて外道とす〉と語られています。
 他にも、〈又或人かねて上人の御臨終の事をうかがひたてまつりければ、上人云、「よき武士と道者とは、死するさまを、あたりにしらせぬ事ぞ。わがをはらんをば、人のしるまじきぞ」と曰ひしに、はたして御臨終、その御詞にたがふ事なかりき〉とあります。ある人が、一遍に臨終について尋ねたときのことです。一遍は、よき武士と仏道にいる者は、死に様を人には知らせないのだと言い、実際に一遍の死ぬときがそうであったと伝えられています。
 また、一遍の弟子である聖戒(?~?)がまとめた『一遍聖絵』では、一遍の残した次のような言葉があります。

 はねばはねよをどらばをどれはるこまの
  のりのみちをばしる人ぞしる

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西部邁

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