『日本式正道論』第三章 仏道
- 2016/10/20
- 思想, 文化, 歴史
- seidou
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第三節 鎌倉仏教・禅系
日本に禅が定着したのは鎌倉時代で、栄西や道元などによって移入されました。
第一項 臨済宗の栄西
栄西(1141~1215)は、鎌倉初期の僧で、日本臨済宗の開祖です。禅と戒律との厳修を説く『興禅護国論』を著し、禅宗の正当性の宣揚につとめました。
『興禅護国論』では、〈善戒経に云く〉とし、〈菩薩、道のために禅定を修し、現世に楽を受けしむ〉とあります。道は菩提の道で、禅定を修せしめる相手は衆生です。
また、栄西は〈日本国において、祖道すなはち大いに興ることを得んと欲す〉と述べています。
第二項 曹洞宗の道元
道元(1200~1253)は、鎌倉時代の仏教家で、曹洞宗の祖です。道元の主著である『正法眼蔵』と、道元が語った仏道修行の心得を弟子の懐奘(1198~1280)が筆録した『正法眼蔵随聞記』から、道についての記述を見ていきます。
『正法眼蔵』
道元の主著である『正法眼蔵』の書名は、正しい仏法の眼目の処在を意味します。
『正法眼蔵』の[現成公案]では仏道について、〈仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり〉とあります。つまり、仏道を習うのは自己を習うということです。自己を習うとは、自己を忘れるということです。自己を忘れるとは、多くのことに教えられるということです。多くのことに教えられるとは、自己と他己の体と心を脱ぎ捨てるということです。ここでいう他己とは、他における自己のことです。
[谿声山色]では、〈ただまさに先聖の道をふまんことを行履すべし〉とあります。仏祖先徳の歩んだ道を踏もうとすべきだと語られています。
[伝衣]では、〈ただ正伝を正伝せん、これ学仏の直道なり〉とあります。正伝を正しく伝え受けるのなら、それが仏法を学ぶのに最も近い道だというわけです。
[仏性]では、『無門関』からの引用で〈平常心是道〉が語られています。平常心是道とは、普段の心がそのまま悟りであるということで、徹底した日常行為の肯定の上に成り立ちます。
[仏教]では、〈諸仏の道現成、これ仏教なり〉とあり、もろもろの仏の言葉の実現したものが仏教だと語られています。ここでの道は、言葉を意味します。『正法眼蔵』では、道を動詞として使う場合は「言う」の意味となり、名詞として使う場合は「言葉」の意味となる用法が見られます。道取という言葉は「表現」の意味で用いられ、道得という言葉は「仏教に相応しい表現」という意味で用いられています。
[図3-3] 『正法眼蔵』の道の用法
[行持(上)]では、〈仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず。発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり〉とあります。仏祖の大道には、かならず最高の修行があり、連綿として断絶することがありません。発心・修行・正覚・涅槃と続いて少しの間隙もありません。修行は持続して、道は巡り続くというのです。
[行持(下)]では、〈ただまさに日日の行持、その報謝の正道なるべし〉とあり、日々の修行は、感謝し報いる正しい道であるべきだと語られています。
[全機]では、〈諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり〉とあります。諸々の仏の大道は、究極のところ、透き通ってありのまま現れているということです。
[古仏心]では、〈古仏の道を参学するは、古仏の道を証するなり。代代の古仏なり。いはゆる古仏は、新古の古に一斉なりといへども、さらに古今を超出せり、古今に正直なり〉とあります。古仏の道を学ということは、古仏の道を体得することです。だから、代々すべてが古仏なのです。いわゆる古仏の古は、新古の古に他なりませんが、その古仏とは、古今を超越したもので、古今をまっすぐに貫いたものだというのです。
[密語]では、〈諸物之所護念の大道を見成公案するに、汝亦如是、吾亦如是、善自護持、いまに証契せり〉とあります。諸々の仏の護持した大道をありのままに突き詰めると、汝もまたかくの如し、吾もまたかくの如し、みずから護持するが善いのです。このことは今でも同じことだというのです。
[遍参]では、〈仏祖の大道は、究竟参徹なり〉とあり、仏祖の大道は、究極のところ善知識を訪ねて参学することに尽きるとされています。
[発無上心]では、〈仏法の大道は、一塵のなかに大千の経巻あり、一塵のなかに無量の諸仏まします〉とあり、仏法の大道においては、塵ほどの中にも、幾千の経巻があり、限りなき仏たちがましますと語られています。
[発菩提心]では、そのものずばりで、〈菩提は天竺の音、ここには道といふ〉とあります。菩提というのは、天竺のことばを音写したもので、中国ではそれを道と訳すというわけです。
[三十七品菩提分法]では、八正道(八聖道とも言います)が語られています。八正道は、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定から成ります。
[図3-4] 八正道
[自証三昧]では、〈自己を体達し、他己を体達する、仏祖の大道なり〉とあります。自己をも体達し、他己をも体達するのが、仏祖の大道というわけです。
[四禅比丘]では〈仏言〉とし、〈唯一究竟道ナリ〉とあります。仏が〈究極の道はただ一つである〉と言ったとのことです。
『正法眼蔵随聞記』
懐奘が道元の言葉を筆録した『正法眼蔵随聞記』では、〈学道の人も、はじめ道心なくとも、只強て道を好み学せば、終には真の道心も、をこるべきなり〉とあるように、道を求め学ぶように努力すれば、本当の心構えが出来てくるものだとされています。そこで、〈善知識に随て、衆と共に行て、私なければ、自然に道人也〉と言われ、高徳の賢者に従って、私心なく皆の者と一緒に修行すれば、おのずとそのまま仏道の人であるとされています。ここで注意すべきは、〈道は無窮なり。さとりても、猶行道すべし〉ということです。つまり、道は無窮なので、悟ったとしても、なお修行しなくてはならないと語られているのです。
道元は、〈道を得ることは、根の利鈍には依らず。人々皆法を悟るべき也。只精進と懈怠とによりて、得道の遅速あり。進怠の不同は、志の到ると到ざると也。志ざることは、無常を思はざるに依なり。念々に死去す。畢竟暫くも止らず。暫くも存ぜる間、時光を虚すごすこと無れ〉と言います。道を得ることは、生まれつきの賢愚によるのではなく、人間はみな法を悟り得るものなのだと語られています。ただ、努力しているか怠けているかにより、道を得るのに早いか遅いかの違いが生ずるのだとされています。努力するか怠けるかの違いは、道を求める志が切実であるかないかの違いによります。志が切実でないのは、無常を思わないからだといいます。人間は少しも留まることなく死へと向かいますから、存命の間は、むなしく時を過すことがあってはならないと説かれています。そこで、〈私曲を存ずべからず。仏祖行来れる道也〉と、自分勝手に考えるのではなく、釈尊や歴代の祖師たちが踏み行ってきた道を辿ることが示されています。
しかし、いきなり高慢な理想を掲げるのも困り者です。まずは自分の身近なところを大切にすることが肝心です。〈人、其の家に生れ、其道に入らば、先づ、其の家の業を修べし、知べき也。我が道に非ず、自が分に非ざらん事を知り修するは即非也〉とあるように、生まれた家の家業を修めて知るべきだと語られています。自分の分限を超えたこと、つまりは自分の道ではないことを学び身につけることは心得違いとだとされています。
道を学ぶ人に対しては、〈学者、命を捨ると思て、暫く推し静めて、云べき事をも、修すべき事をも、道理に順ずるか、順ぜざるかと案じて、道理に順ぜば、いひもし、行じもすべき也〉と言われています。命を捨てる気概でやるにしても、心を静かにして、言うべきことも、修めるべきことも、道理に適っているかどうかで、言ったり行ったりすべきだと語られています。まさしく、道理が大事なのだとされています。
そこで、〈世情の見をすべて忘て、只、道理に任て、学道すべき也〉とあり、世間的な見方を忘れて、ただ道理が示すとおりに道を学ぶべきと言われます。そこにおいては、〈他のそしりに[とり]あはず、他のうらみに[とり]あはず、いかでか我が道を行ぜん。徹得困の者、是を得べし〉とあり、他人の誹謗や恨みに取り合わず、なんとかして自分の道を行うしかないとされています。徹底的にやり抜こうとする者だからこそ、道を得ることができるのだとされているのです。ですから、〈只、時にのぞみて、ともかくも、道理にかなふやうに、はからふべき也〉とあり、時宜に応じて道理に適うように計らうべきことが説かれています。
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