思想遊戯(10)- パンドラ考(Ⅴ) 水沢祈からの視点(大学)

第五項

 上条さんは、教室の黒板側にある前方の台に上った。彼女は大仰に、パンドラの匣について述べていく。
 皆の反応は様々だ。智樹くんは、楽しそうに彼女を見ている。高木先輩は、慣れた風で静かに彼女を見ている。峰くんは、ポカーンといった感じで彼女を見ている。私は、静かに表情を崩さず冷静に彼女を見る。
 彼女が語り終えると、彼女はゆっくりと台から降りて、近くの席に座る。
一葉「さあ、テーマは“パンドラの匣”です。このテーマをたたき台にして、議論してみましょう。」
 ここで、峰くんがおずおずと発言した。
琢磨「あの、ここでは多分、俺が一番頭悪いと思うので質問しておきたいのですが、議論って、具体的にはどうやるのでしょうか? パンドラの匣をたたき台にするって、それって話としては完成されているものでしょ? それで、どうやって議論するのですか?」
 智樹くんが答える。
智樹「琢磨は、ディベートみたいなのを想像してるんだろ? まあ、テーマは何でもありなんで、ディベートみたいのでも良いことは良いんだよ。だから、分かりやすく死刑制度の是非についての議論とかでも良いんだ。で、今回のテーマは“パンドラの匣”なんだけど、こういった歴史的な物語の場合は、この話の教訓は何だろうとか、この話ができたときの歴史的背景はどうなっていたのかとか、この話が後世でどのように利用されてきたのかとか、そういったことを好きに話せば良いってわけ。」
琢磨「ふ~ん。なるほどねぇ。」
千里「峰くんは、パンドラの匣は知っているの?」
 ここで高木先輩が議論に乗ってくる。
琢磨「あんまり知らないですね。先ほどの上条先輩がおっしゃっていた内容くらいは知っていますけど、それ以上は分かりません。」
 私も議論に参加することにしよう。
祈「パンドラの匣の元ネタは、古代ギリシャの詩人ヘシオドスによります。ヘシオドスによると、ギリシャ神話の主神ゼウスが、最初の女性であるパンドラを作って人間に与えたとされています。」
琢磨「その人間って、プロメテウスのこと?」
 峰くんが私にたずねる。
祈「いえ、パンドラはプロメテウスの弟のエピメテウスの妻として迎えられたそうです。そうして、あらゆる女性の母となった、と。」
智樹「そのとき、パンドラが神から送られた匣を持ってきたんだっけ?」
 今度は智樹くんが、私にたずねる。
祈「ううん。実はオリジナルでは、匣ではなくて甕(かめ)なの。甕の大蓋(おおぶた)をパンドラが開けてしまって、苦難をまき散らしてしまう。パンドラがあわてて大蓋を閉めると、最後に希望のみが残ったと伝えられているのね。」
智樹「へぇ、じゃあさ、甕だったのが途中で箱に変化したってこと?」
祈「そうみたいね。甕だったり、瓶(ビン)だったり、匣だったりするみたい。まあ、蓋を開け閉めできるものなら、何でもいいのでしょう。」
千里「そのときどきで、イメージしやすいものが題材にされて論じられているってことじゃないかな?」
 高木先輩が意見を出す。なるほど、面白い意見です。
 ここで、上条先輩が発言した。手には皮製の手帳がある。
一葉「“パンドラの甕”が、“パンドラの匣”になってしまった原因は、ロッテルダムのエラスムスが1508年に出した『三千の格言』という書物のせいです。この中では、パンドラが開けてしまったのが匣として語られています。」
千里「へえ、ずいぶんと後の時代になってからなのね。」
 高木先輩が、いつものことのように応える。峰くんは驚いているようだ。智樹くんは嬉しそうに聞いている。
一葉「そうだね。そもそも、ヘシオドスの著作がラテン語で読めるようになったのは、十五世紀末ごろからなの。だから、パンドラの話自体が、そこまで時代をさかのぼらないとなかなか出てこなかったという歴史的経緯があるの。そして、出てきたらすぐに、エラスムスによって匣という設定にされてしまい、それが定着したということです。」
琢磨「すごいです。よくそこまで知っていますね。」
 峰くんが感嘆の声をあげる。
一葉「いえ、興味があったから調べたことがあるだけです。」
 手帳を片手に、あっさりと上条先輩は言う。
智樹「いや、やっぱり一葉さんはすごいです。それにしても、このパンドラの匣って、『旧約聖書』の[創世記]の原罪の話に似ているような気がするんですよね。アダムとイブが神に禁じられた果実を食べたから、楽園を追放されたって話と似ているなぁって。」
 ここで智樹くんが、別の視点を打ち出す。私もそれに乗って話す。
祈「そうね。そもそもパンドラは、プロメテウスが火を盗んだことに怒ったゼウスが、人間に災厄をもたらすために遣わせた者だし。」
琢磨「んっ? どういうこと?」
 峰くんが質問する。
智樹「琢磨って、神話って何のためにあると思う?」
琢磨「何って、科学が発達する前の時代の迷信?」
智樹「まあ、そういった考えでもいいや。とりあえず、世界がなぜこうなっているかは現代では科学的に研究されているわけだけど、神話がその役割を担っていた時代があったってことだね。それで、この世界に悲惨なこととかがあふれている理由が、神話には必要だったってわけ。そういった観点から神話を考えてみるのも、面白いって話だね。」
琢磨「はぁ~。でも、アダムとイブって、最初の男女じゃなかったっけ? パンドラも最初の女性なの?」
智樹「まあ、そこは違う神話の話ってことだな。日本神話でいうなら、イザナギとイザナミが最初の男女になるしね。」
 ここで上条先輩が発言する。
一葉「イザナギとイザナミは神世七代(かみのよななよ)の最後に登場する神様です。神世七代の途中から男神と女神が出てくるから、厳密には最初の男女ってわけではないのですけどね。」
琢磨「いろいろと詳しいですね。」
 峰くんが感嘆している。
智樹「な? 上条先輩って、すごいだろ?」
 智樹くんがなにか得意そうで、ちょっとむかつく。
千里「パンドラって、いろんな題材でネタにされているわよね?」
 高木先輩が話をもとに戻そうとしているので、私もそれに乗っかる。
祈「そうですね。例えば私は、太宰治の『パンドラの匣』を読んだことがあります。登場人物がパンドラの匣という物語について解説するのですが、そこではなぜか匣の隅に小さい光る石が残っていることになっていて、しかもその石に希望という文字が書かれていたという設定になっているのです。変な脚色が付け加えられているわけです。先ほど高木先輩がおっしゃったように、その時代でイメージしやすいように題材が加工されているような気がします。」
千里「何で石に希望って文字が書かれていたのかしらね?」
 高木先輩がもっともな疑問を投げかける。
祈「そうですね。不思議ですね。その答えになるかどうかは分からないのですが、太宰の『パンドラの匣』では、人間には絶望と言う事はあり得ないと考えられているんですよ。不幸のどん底につき落とされても、人間は希望を求めずにはいられないと語られているのです。そのため、希望が単なる抽象的なものではなく、イメージしやすい石という形を取ったのではないかと私は考えています。」
千里「へぇ、面白いね。あなた、やっぱりちょっと一葉に似ている気がするなぁ。」
 その高木先輩の言葉に、私はドキッとする。
祈「そうですか? 自分では分かりかねますけど。高木先輩は、パンドラの匣で何かイメージしたりしないのですか?」
 私は平静を装って会話を続ける。
千里「私? 私は、そうねぇ。ヴェデキントの『パンドラの箱』なら見たことあるかな。」
祈「私は、そっちは見たことないです。どういった話なんですか?」
千里「だいぶ前に読んだからかなり忘れているのだけれど、ルルっていう女性が男性たちを次々と破滅させていく話かな。そういった意味で、ルルを人間社会に禍いを撒き散らすパンドラに例えているわけね。」
祈「なるほど。」
千里「でも、パンドラ関連って、女性を悪く仕立てあげている感じがしない?」
祈「あっ、それはありますよね。なんか男目線の勝手な感じがしますよね。」
 そう言って、私と高木先輩は、男どもの方を向く。
 峰くんは半笑いを浮かべている。智樹くんは、なにやら上の空だ。
祈「どうしたの? 智樹くん?」


※次回は10月上旬公開予定です。
※本連載の一覧はコチラをご覧ください。

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西部邁

木下元文

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投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
ウェブサイト「日本式論(http://nihonshiki.sakura.ne.jp/)」を運営中です。

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