思想遊戯(10)- パンドラ考(Ⅴ) 水沢祈からの視点(大学)

第二項

祈「こんにちは。」
 私は、噴水で本を読んでいる一つ年上の先輩に話しかけた。その人は、読んでいる本から目を離し、しばらく私を見詰めてから言った。
一葉「・・・・・・・・・こんにちは。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
 私の鼓動が、ドクンッと鳴った音が聞こえた。
 その女性は、とても美しい人だった。それに加え、彼女の瞳が私を見据えたとき、私は、私の奥が覗かれたと感じた。
 正直、屈辱だ。
 この人は、私の勘が言っている、恐ろしい女性だ。それも、実際は恐ろしいということを隠しているタイプだ。気づく人だけが気づく。牙を隠している。そして、後ろからそっと牙を立てるのだ。
 私は、鼓動を必死に押さえて、平静を装って応えた。
祈「私は、水沢・・・祈と申します。佳山智樹くんの友達と言ったら分かりますか?」
 私の言葉に、彼女は眉一つ動かさなかった。彼女が何を考えているのか、まったく読むことができない。
 彼女は、とても長い時間、黙って私を見詰めてから、言った。
一葉「そうですか。智樹くんのお友達ですか。」
 私は、少しばかり、いや、かなり動揺した。この女性は、智樹くんを名前で呼んだ。智樹くんは、この女性に名前で呼ぶことを許したのだろうか?
 私は呼吸を整えてから、彼女に話しかけた。
祈「そうなんです。智樹くんから、面白そうな人がいるって聞いて、どんな人なのかなって思って。」
 私は彼女の様子をうかがったけれど、やはり彼女はわずかな感情の起伏も見せない。
一葉「・・・そうですか。それで、私に会いに来たのですか?」
 彼女は静かにそう訊いてきた。
 私は、一瞬、何と答えるべきか迷った。迷ったけれど、彼女をしっかりと見詰めて、言った。
祈「そうです。智樹くんからあなたのことを聞いて、どんな人か確かめにきました。」
 私がそう言うと、彼女は静かに微笑んだ。思わず見とれそうになる。ああ、この人はとても美しい人だ。でも、美しい薔薇には棘がある。私の心に浮かんだこの言葉を、そのまま彼女にぶつけてみたらどうだろう。そんなことが考えに浮かんでは消えた。
一葉「もう一度、お名前を。」
祈「えっ?」
一葉「先ほど、よく聞こえなかったので、もう一度あなたのお名前を教えていただけませんか?」
 彼女は静かに私に言った。彼女の声は平静そのものだったけれど、私には子供をあやす母親のように響いて・・・・・・、正直なところ、不快を感じた。
 落ち着け。ただ、名前を聞かれただけだ。まだ、何も始まってはいない。
祈「私の名前は、水沢・・・祈・・・です。」
一葉「良いお名前ですね。」
 彼女は、やっぱり静かに言葉を並べる。私は、自身の気が立ってくるのを抑えることができない。
祈「そうでしょうか? それなら、上条さんのお名前も素敵だと思います。樋口一葉みたいで。」
 私は、勢いのまま言葉をはき出す。そんな私の様子など関係ないかのように、彼女は静かにゆっくりと答える。
一葉「ありがとうございます。樋口一葉のイチヨウで、カズハって読むのは、自分でも気に入っています。」
 そうして彼女は微笑むのだ。
 私は、自分の劣勢をありありと感じた。こんな当たり障りのない簡単な会話。でも、私にははっきりと分かる。この女は危険だ。恐ろしいと言ってもいい。怒りと恐怖が入り交じっている感情の渦の中、私は溺れそうになっている。
 私が黙って彼女を睨んでいると、彼女は優しく言った。
一葉「せっかくなので、座って話しませんか?」
 私は、しばらく経ってから、こくりと頷いた。
 私と上条一葉。
 二人は大学内にある噴水のところのベンチに座り、会話をする。
一葉「水沢さんは、大学には馴れましたか?」
 彼女は、当たり障りのない話題を振ってきた。
祈「ええ。だいたい分かってきました。大学って、高校までとは違って、なんかのびのびできる感じがします。」
 そう言って私は笑みを作る。そんな私を見て、彼女は静かに微笑む。
一葉「そうですか。それは良かったです。水沢さんは、大学に入って何かやりたいこととかあるのですか?」
祈「ええ、まあ、色々と、あります。」
一葉「訊いても良いですか?」
 断ろうかと思ったけれど、さすがに私から話しかけておいてそれはないだろうと思い直す。
祈「ええ。こう見えて私、高校時代はけっこうな優等生を演じていたんです。それに飽き飽きだったので、大学では自分の思うように生きてみようかと。」
 そう言って私は彼女の瞳を見つめた。綺麗な瞳だ。
一葉「思うように生きてみたいのですか?」
祈「そうです。思うようにです。」
 彼女の瞳は、まだ、底が見えない。
一葉「水沢さんの思うようにとは、どういったことなのでしょうか?」
 彼女は私に問う。
祈「どういったことって・・・。」
 彼女が私を覗き込む。
一葉「例えば、授業をさぼったり、バイトしてみたり、恋をしてみたりすることですか?」
 そう私にささやく彼女に、私は、かつて私の中にいた悪魔の面影を見つけた。おもわず私は、目をこする。
一葉「どうかしましたか?」
祈「い、いえ。」
 私は、何を考えているのだろう…?
祈「えっと・・・。」
一葉「思うように生きてみれば良いのではないでしょうか。水沢さんの人生は、水沢さんのものです。思うように生きたいのなら、そうすればよいのではないでしょうか?」
 彼女は、そう言って私を見つめる。
 気付け、私。彼女の意図を。彼女の言葉は、きっと、重いのだ。
祈「その意見には、何か棘がある気がします。」
 私は彼女を睨む。彼女は静かに私を見返す。
一葉「棘・・・、ですか?」
祈「そう、棘です。綺麗な薔薇には刺があるそうですよ。」
 私がそう言うと、彼女は静かに微笑む。
一葉「そうですか。それは、面白い意見ですね。」
 私はひるまずに語る。
祈「私の中には、昔は悪魔が棲んでいました。」
 私がそう言うと、彼女の表情が微妙に変化したのを私は見逃さなかった。
一葉「悪魔・・・ですか・・・。」
 私はうなずく。
祈「そうです。悪魔です。私の中には悪魔がいました。私は、私の内で育っている悪魔を怖れていました。そして、私は、あなたの中に、かつて私の中にいたものと同じ匂いを感じています。」
 私がそう言うと、彼女は、とても嬉しそうに微笑んだ。
一葉「それは、とても素敵なお話ですね。」
 私は、思わず彼女を睨みつけてしまった。
祈「どこが・・・、素敵な話なんですか?」
 彼女は、黙って私を見つめている。その瞳に吸い込まれそうになる。危険だ。私は意識を強く保ち、彼女の目を見返す。
一葉「水沢さん。私は、明日も同じ時間にここにいます。よろしいでしょうか?」
祈「分かりました。明日なら、大丈夫です。」
 それを聞くと、彼女はベンチから立ち上がった。
一葉「それでは、また明日。」
 そう言って、彼女はゆっくりと去って行った。

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西部邁

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