思想遊戯(10)- パンドラ考(Ⅴ) 水沢祈からの視点(大学)

第三項

 私がベンチに座って噴水を眺めていると、上条さんが話しかけてきた。
一葉「こんにちは。」
 彼女は、穏やかな声で私に語りかけた。この人は、危険だ。あの表情、あの仕草、あの憂い。世の男どもを魅了するに十分だ。
祈「こんにちは。」
 私は、彼女のほほ笑みに応える。
一葉「早かったですね。」
祈「講義が少し早く終わったので。」
一葉「そうですか。」
 そう言って、彼女は私の隣に座る。彼女は、私をのぞき込んで、こう言った。
一葉「あなたは私に似ているかもしれません。」
 私は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
祈「どこが似ているのですか?」
 私は、できるだけ感情を抑えて冷静を装って彼女にたずねた。彼女は、静かに語った。
一葉「あなたの精神は、どこか冷たいほどに透き通っているような気がします。」
 彼女は私にささやく。
一葉「あなたには、私の心の中を少しだけ教えてあげます。でもその前に、あなたの心の中を私に教えてください。」
 彼女のその言葉に、私は凍りつく。とても危険なことだ。とても、まずい。
 私の心臓は、最大限の警報を鳴らしているかのようにバクバクと脈打っている。
一葉「あなたは、なぜ、智樹くんに惹かれたのでしょう? そこには、きっと、かわいらしい少女の気持ちだけではない、もしかすると恐ろしい何かがあったのだと思うのです。」
 私は、体がふらつきそうになるのを感じた。力を入れていないと、ふらふらと体が揺れてしまいそうだ。
一葉「智樹くん。彼も不思議な人だと思います。いいえ、不思議というより、変わった人かな。智樹くんは、他の人とは違うものを観ています。だから、智樹くんはとても危ういし、ある意味で魅力的でもあるのだと思います。常識人というよりも、常識を知っている人なのです。ですから、常識的な振る舞いをすることができます。でも、彼は、もっとずっと難しいことを考えています。それは、多分、平均的な人には興味のないことなのです。ですから、彼の興味は世間からは外れています。だから、彼と会話を交わす回数が増えていくたびに、彼の興味と会話する相手の興味はだんだんと隔たっていくのでしょう。そのズレに耐えられなくなった人は、きっと智樹くんから去っていきます。智樹くんと親交を深めるには、彼の興味の少なくとも一端には触れていなければなりません。そうしないと、彼と本当の意味において、友達にはなれません。だから、水沢さん。あなたは、心の中に何かを秘めている。そして、その秘めている何かが、智樹くんと化学反応を起こしたのです。」
 彼女はそう言って、黙って私を見つめた。私は、どうしたら良いのだろう? この人が怖い。はっきりと私は恐怖を感じていた。
 でも、恐怖以外の感情も私の中にはあった。それは、智樹くんに対して覚えた感情と同じものなのかもしれない。そう、思った。
 だから、私はここから、逃げ出すわけにはいかないのだ。
祈「ずいぶんと勝手な推測をしていただいたようですけど、全然違うと思いますよ。」
 私は、少し強い口調でそう言った。彼女は、まったく表情をくずさずに、冷静に私に告げる。
一葉「そんなことないと思います。もう少しはっきりと言ってあげます。あなたは、心の中に闇を抱えています。その闇の部分が、智樹くんに反応したのです。そして、それゆえ、あなたはこうして、今、私の前にいるのです。」
 彼女は、当り前のことのように言い放った。その姿勢に、その声色に、私は虚勢が無意味なことを悟った。
祈「おもしろいですね。では、私の心の中の闇ってなんですか?」
 彼女は微笑む。そのきれいなほほ笑みの裏に、どんな感情が潜んでいるのだろう?
一葉「簡単に要約することは難しいですね。でも、あなたは、あなたの闇に取り込まれることを望んでいたことがあったはずです。そんなとき、智樹くんと会って、あなたはご自身の闇を強く意識するようになった。そのことによって、あなたの人生は、少し違う軌道を描くようになったはずです。それがあなたにとって良いことだったのか、それとも悪いことだったのか、それはあなたがこれからの人生で実感していくことなのでしょう。私は、あなたにとって良かったことだと思っていますが。」
 恐怖とも歓喜とも言い難い、得体のしれない感情が湧きあがってきた。
祈「なぜ、そんなことが分かるのですか?」
一葉「言ったでしょう? あなたは私に似ているかもしれない、と。」
 私の中の恐怖の度合いが膨らんだ。私と彼女は、似ていない。いや、正確には、彼女の中には、私の闇をとらえるほどの何かがあるのだ。私のこのときの恐怖を理解していただけるだろうか?
 私のこの恐怖は、今まで誰も分かってくれない、それどころか、気づいてもくれないと思っていた私の感情が、私の闇が、見透かされているという恐怖だ。この恐怖がどれだけ深かったか、どれだけの人が同じ水準に立って共感してくれるというのだろうか?
祈「先輩と私は、似ていません。ただ、先輩の脳みそを解剖して、その中身をじっくりと検査してみたいですけどね。」
 私がそう言うと、彼女は穏やかに笑うのだ。
一葉「ふふふっ。それは良いアイディアだと思います。」
 ああ、私ははっきりと理解した。これは、力量差がある戦いなのだ。いや、だから、戦いですらなかったのだ。人知れず自分は頭が良いと思っていた井の中の蛙が、本当の意味でやりこめられてしまうという、滑稽で情けない喜劇でしかないのだ。
一葉「あなたの中の闇は、智樹くんに惹かれました。それは、分かります。だから、あなたは、私に会いに来たのです。でも、智樹くんは私の大事なお友達なのです。」
 彼女は、一葉さんは、私をしっかりと見つめて言った。
 ああ、彼女の言うことはもっともだ。私は迂闊だったのだ。私の内に潜む闇の部分どころか、その闇の部分を心ひそかに優越感にしてしまっていたというところまで曝されてしまった。
 恥ずかしい。でも、
祈「そうですね。でも、智樹くんは、私にとっても大事な友達です。」
 私は、そう、彼女に告げたのだ。
一葉「それは、素敵ですね。」
 彼女は本心から微笑んだ、ように見えた。
祈「なっ、あ、あなたは何を言っているのですか?」
一葉「私は、水沢さん、あなたともお友達になりたいのです。だから、智樹くんが作ろうとしているサークルに入ってください。」
 私たちは、見つめ合っている。彼女は、どこまで見据えているのだろう?
祈「分かりました。」
 そう、私は応える。
一葉「水沢さん。“思想遊戯同好会”は、議論をするサークルです。あなたと議論できることを楽しみにしています。」
祈「分かりました。」
 彼女は、ゆっくりとうなずく。
一葉「ところで、水沢さん。パンドラの匣という神話を知っていますか?」
祈「…知っていますが? と言っても、聞いたことがあるくらいですが…。」
一葉「私は、サークルの第一回のテーマに、このパンドラの匣を推したいと考えています。」
 そう言うと、彼女は立ち上がった。
祈「あの…。」
一葉「それでは、今日のところはこれで。水沢さん、次回お会いするのは、サークルの発足会のときだと思います。そのときを、楽しみにしています。」

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