『地獄に堕ちても』

ザビエルらの布教において

 室町時代の日本においては、フランシスコ・ザビエル一行がキリスト教の布教活動を行っていました。そのときの活動については、ザビエルの『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』や、ルイス・フロイスの『完訳フロイス日本史』などで知ることができます。
 ザビエルの活動において注目すべき点の一つに、キリスト教の地獄を巡る日本人の反応を挙げることができます。ザビエルの書簡には、次のような記述があります。

 日本の信者たちには一つの悲しみがあります。私たちが地獄に落ちた人は救いようがないと言うと、彼らはたいへん深く悲しみます。亡くなった父や母、妻、子、そして他の人たちへの愛情のために、彼らに対する敬虔な心情から深い悲しみを感じるのです。多くの人は死者のために涙を流し、布施とか祈禱とかで救うことはできないのかと私に尋ねます。私は彼らに助ける方法は何もないのだと答えます。
 彼らは、このことについて悲嘆にくれますが、私はそれを悲しんでいるよりもむしろ、彼らが自分自身[の内心の生活]に怠ることなく気を配って、祖先たちとともに苦しみの罰を受けないようにすべきだと思っています。

 身も蓋もない言い方をしてしまいますと、ザビエルは地獄に行った祖先は仕方がないので、お前たちが地獄に行かないようにキリスト教に入りなさいと言っているわけです。ザビエルの立場としては、そう言うしかないということも理解できますが、やはり日本人としては違和感を覚えるところです。
 フロイスの方の記録には、都の人たちがキリスト教の地獄を知ったときの反応が語られています。

 都の異教徒たちは、仏の教えは、デウスの教えよりもずっと以前に日本に伝わった。そしてそれは彼らの先祖によってつねに深く敬われて来たのであって、たとえ彼らがなんの救いもなく永遠の苦しみを負って地獄の底に投げこまれることが確かでもキリシタンになりはしない。なぜならキリシタンになることは先祖に侮辱を加えることになり、彼らの偽りの神々の祭祀を汚すことになるからである。

 当時の都の日本人が示したこの判断は、私にはとても健全なものに思われるのです。

ホイジンガの話

 室町時代の日本人が示した反応は、何も日本人に限ったものではありません。
 オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガの『アメリカの精神』(『ホイジンガ選集5』収録)に、類似した話があります。
 ホイジンガが、アメリカで若い社会学者と話したときのことです。その社会学者は、〈いったい、なぜ過去の時代は偉大な芸術を生み出したのでしょうか。当時は、生活自体を生きるに値するものとするためには、生活と世界を支配する手段があまりにも不十分だったので、強く持続的な逃避と精神の強力な虚構とがなければ、現実の世界に堪えることができなかったのだと思います。――ですから、あらゆる時代の芸術は、根本的には病的現象と言えるでしょう〉と述べています。
 その言葉に対し、ホイジンガはフリースランドの王ラートボートの話をするのです。

 僧正が今しも王に洗礼を授けようとしたとき、王は僧正に、いったい今自分の父祖たちはどこにいるのか、と尋ねた。「地獄でございます」という答えを聞くと、足を踏み鳴らしながら王は洗礼盤から出てきて、余は新しい楽園よりも父祖たちのいる場所の方がいい、と言った。そんな話である。私はこの点、ラートボートの先例に倣って、社会的完璧さをもった約束の地に住むよりは、むしろ文化の妄念と恐怖の荒野に住みたいものだと言明した。

 このホイジンガの言葉は、アメリカの若い社会学者には届かなかったようです。しかし、このホイジンガの話に価値を見出す人もいるでしょう。ここには、精神における偉大さが、分かる人には分かるようにはっきりと示されているのです。

対地獄の思想

 地獄という言葉は、宗教用語から派生して、非常に苦難な状況や場所の比喩として表現されることもあります。「地獄に堕ちるぞ」とか「地獄に堕としてやる」といった言葉は、そういった意味で今でも十分な脅し文句になりえます。
 私は、そういった脅しに屈するかもしれません。ただ、たとえ屈したとしても、それは私が弱いからだということは分かっているのです。それが分かっているということは、精神的な意味における強さについて、わずかながらも理解できているということだと考えています。
 対地獄の思想。たとえ地獄に堕ちたとしても・・・。
 そこには、人類史における精神の偉大さがありえているはずです。少なくとも私は、精神の偉大さがありえるという儚い仮説に立脚して生きています。

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西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
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