『夢幻典』[壱式] 有我論
- 2016/11/14
- 思想, 歴史
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解説
ここでは、ウパニシャッドの思想を参照しています。特に、二大哲人であるウッダーラカ・アールニとヤージュニャヴァルキヤの考え方を軸に論理を組み立てています。
ウッダーラカ・アールニは、紀元前八~紀元前七世紀に活躍し、「有(う)の哲学」を展開しました。ヤージュニャヴァルキヤはその一世代後に登場し、自己(アートマン)についての深い哲学的洞察を残しています。仏教の無我をその構造レベルで把握するためには、仏教以前の彼らの有や自己についての思想を知っておくことが重要だと思われます。それを知らずに、はじめから仏教思想に入ってしまうと、仏教がそもそも何と格闘し、何を否定しようとし、何を肯定しようとしていたのかが分からなくなってしまうからです。
彼らの哲学には、仏教が否定しなければならなかった何かがあり、その否定作業にも関わらず、否定しきれなかった何かがあるのです。
さて、それでは有の思想をできるだけ分かりやすく説明してみましょう。
まず一度、眼をつぶってみてください。それから、一気に眼を見開いてみてください。そのとき、暗闇から鮮明な映像が飛び込んでくるはずです。世界は、暗闇から光あふれる世界へと開かれたはずです。このとき、何かが有ると“思える”はずです。そして、それだけが有るのであり、それ以外は無いと“感じられる”はずです。
そのとき、この眼(私の目)からは世界が見え、あの眼(他人の目)からは世界が見えないことに気づきます。同じ眼であるはずなのに、です。そこには、この眼とあの眼がまったく異なるという気づきがあるのです。世界は、あの眼からは見えないのです。この眼からしか、世界は見えないのです。この眼が有るということが、この世界を見えさせているのです。ここに、有の思想の片鱗があります。我が世界と同一視される思考形態があるのです。お分かりいただけるでしょうか?
そして、『夢幻典』は、この思考形態を示した上で、次の『無我論』へと続くことになります。
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