自己とは、目に見えない視覚の主体であり、耳に聞こえない聴覚の主体である。
思考されない思考の主体であり、認識されない認識の主体である。
それ以外に見る者はおらず、それ以外に聞く者はいない。
それ以外に思考する者はおらず、それ以外に認識する者はいない。
認識の主体を、何によって認識することができようか。
その特性上、自己は、非ず、非ず、として示される。
これは否定によって語られ、否定を繰り返すことによって示される。
不可測である対象を、肯定ではなく否定によって示す修辞である。
なぜなら経験世界において、経験そのものの根拠を語ることは越権であるから。
よって、経験世界として梵と我が措定され、その一如が説かれる。
これが梵我一如である。
連環理から外れた論理の飛躍を持ち出そう。
そのとき、太初において梵が想定され、後に我が想定される。
さらには、梵の前に一を僭称する神が想定され、別の宗教体系がひらかれる。
その経路は、連環理によって拒絶される。
一は二に、二における一は多を知る。
そこに梵我一如の教義があらわれる。
多は二における一へ、その二は一へと収束する。
ここに奥義がある。
一へと至り、欲望は滅す。
一へ至る者は、万物の創造者であるから。
汝はいっさいをつくり出すから。
世界は汝のものであり、汝は世界そのものであるから。
その一へ至る。汝はそれである。
ここにおいて、言葉によって生活世界が築かれる。
そこにおいて、言葉によって失われたもの有り。
多様には有り得ないものを、複数性として語るゆえ。
失われたものにより、心が生まれる。
心の複数性が、生活世界を構築する。
すなわち、意味が生まれる。
異なるものを同じと見なすことによって、共通性をつくり出す力が生まれた。
すなわち、言葉の意味が生まれた。
そこにおいて、さらに梵我一如の教義が語られる。
一へと至り、欲望は滅す。
ここに奥義がある。
そして、さらに、その先を語ろう。
語ることあたわずとして語られなかった、奥義の裏側を語ろう。
それは、そういった心理操作として在る。
心の扱いの問題がここにはある。
それは、語ることを禁じられた底の裏。
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