ドラッカー守破離

ドラッカーにおける「破」:グローバル論

 ドラッカーの影響は、日本において特に強いと言われています。ドラッカー経営学はたしかに優れているため、心酔してしまった人も多かったのでしょう。しかし、ドラッカーの言うことがいつも正しいとは限りません。良いところは学び、おかしなところは見習わないようにすべきでしょう。
 ドラッカーの著書の中で特に問題があると感じられるものに、『ポスト資本主義社会』(名著集8)があります。その本でドラッカーは、通貨がグローバル化することによって経済政策が無効になり、国民国家が無視されてしまう事態を指摘しています。グローバル化する情報が、同一の国民だという認識を希薄化あるいは破壊することも指摘されています。確かにそういった側面があるのはいなめないでしょう。その上でドラッカーは、国民国家について次のような分析をしています。

いくつかの分野において、国民国家を超越する真にグローバルな機関へのニーズが高まっている。その種の機関は、国民国家の壁を超えて意思決定し、行動する。国民国家の中の市民や組織を直接支配する。そのような分野は広範にある。それら新しいグローバルな機関による意思決定は、国民国家を脇へ押しやる。場合によっては、国民国家は、それらグローバルな機関の代理機関にすぎなくなる。

 ドラッカーが到来を予測する知識社会では、グローバルを根拠として次のような普遍性が説かれています。

知識社会は、教養ある人間をその中心に据えざるをえない。教養ある人間は、知識社会がまさしく専門知識の社会であるがゆえに、そしてまた、その通貨、経済、仕事、技術、課題、情報がグローバルであるがゆえに普遍的な存在たらざるをえない。 しかも、ポスト資本主義社会には求心力が必要である。諸々の独立した伝統を、共有の価値への献身、卓越性の追求、相互の尊重へとまとめあげる者が必要である。したがって、知識社会としてのポスト資本主義社会は、脱構造派、フェミニスト、反西洋主義者の一部が要求するものとは、まさに正反対のものを必要とする。彼らが完全に否定しているもの、すなわち普遍性をもつ教養ある人間を必要とする。

 もちろん、ドラッカーの言う教養ある人間は、他の偉大な文化や伝統を理解する者だと想定されています。しかし、その教養ある人間は、西洋の伝統を中核に据えて考えられているのです。

教養ある人間が、未来はともあれ現在を理解するには、西洋の伝統を中核に据えざるをえない。未来は脱西洋かもしれない。反西洋かもしれない。だが非西洋ではない。未来の物質文明と知識は西洋を基盤とせざるをえない。すなわち科学、道具、技術、生産、経済、通貨、金融、銀行である。それらはいずれも、西洋の思想や伝統を理解し、受け入れなければ機能しない。

 そこから西洋化された世界が展開され、世界市民の理想が語られることになるのです。

明日の教養ある人間は、グローバルな世界に生きる。そのグローバルな世界が西洋化された世界である。教養ある人間は同時に、部族化しつつある世界に生きる。彼らは、ビジョン、視野、情報において世界市民である。しかし同時に、自らの地域社会から栄養を吸い取るとともに、逆にその地域文化に栄養を与える存在である。

 ここには、危険な思想が胚胎しています。素直に受け入れてはならない何かが、ここにはあるのです。

ドラッカーにおける「離」:国家論

 いわゆる日本型経営は戦中戦後に形成され、戦後日本の高度経済成長期においてそれなりにうまく機能していたように思われます。そこに歪みがあったのだとしても、それを修正しながら活用するという方法が残されていました。
 しかし、ソ連崩壊やバブル崩壊などを境に、いわゆるグローバリゼーションが礼賛されるようになりました。多くの日本企業は、グローバリゼーションという名のアメリカナイゼーションに邁進することになったのです。
 この大きな変化の理由として、世代交代が挙げられます。幼少時に「ギブ・ミー・チョコレート」で育った世代が企業のトップに就き、安易なアメリカナイゼーションへと突き進んだというわけです。この説には一定の説得力はあると思いますが、世の中は複雑ですから、その他にも理由と呼べる要因はあり、それらが複合的に作用したのだと考えられます。その要因の一つに、ドラッカーの思想が影響している可能性もあると思われるのです。
 いわゆる日本的経営とドラッカー経営学には、ある種の親和性が見出されます。そのためドラッカーの経営学を取り入れた者たちが、西洋化された世界や世界市民という考え方をも安易に受け入れてしまった可能性が考えられるのです。
 ただし、ドラッカー自身は『断絶の時代』(名著集7)で次のように述べています。

グローバルであることがアメリカのものであることを意味するのであれば、グローバル企業の寿命は長くない。

 また、現在のアメリカの格差問題を考える上で、次の『マネジメント』(名著集13)における意見は示唆的です。

特にアメリカ企業のマネジメントは、次の問題について「知りながら害をなすな」のルールを犯している。
(1)経営者の超高額報酬
(2)足枷としての諸手当
(3)利益についての説明

 日本の中間層を守るためにも、注意しておきたい論点です。これらの見解から、グローバリゼーションを安易にアメリカナイゼーションとして進めた責任をドラッカーに負わせることはできません。しかし、ドラッカーのグローバル論では、グローバルな世界は西洋化された世界であり、そこでは普遍性をもつ教養ある人間が要請されているのです。これはやはり、危険な思想だと言わざるをえません。
 ドラッカーは偉大な人物だと思いますが、取り入れるべきは取り入れ、受け入れるべきではないところは受け入れないという態度が必要になります。ドラッカーの言う西洋が示す安易な普遍性に対抗するためには、しっかりした国家論が必要になるのです。その詳細は『ナショナリズム論』を参照してください。
 具体的な提案を述べておくなら、国境を越えた通貨の移動がマイナスに作用することがないように、国家間での協調関係を構築し、税金逃れを規制するための枠組みを設けることが挙げられます。国家の役割を重視し、グローバリズムではなくインターナショナリズムに基づいて考えることが必要だと思われるのです。
 その是非についてはひとまず置くとしても、ドラッカーについては、「守」は十分だとしても、「破」や「離」はまだ不十分かもしれません。少なくとも、その可能性は検討に値するように思えるのです。

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西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
ウェブサイト「日本式論(http://nihonshiki.sakura.ne.jp/)」を運営中です。

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