『日本式 正道論』序章 世界と国家と人生、そして道
- 2016/6/13
- 思想, 文化, 歴史
- seidou
- 99 comments
第七節 日本人
自国とは、精神の奥底で、自分の思考・志向が基づいている様式です。それに自覚的になることは大切なことだと思われます。自覚的になった上で、その様式を引き受けるにしろ、はねのけるにしろ、意識的な関わりをどのように処するかを判断するために、日本というこの国家についての考察が必要になります。
私は、日本という国家に属する日本人です。そのため、私が日本国の日本人であるということが大きな意味を持ちます。そのため、「日本とは何か」、「日本人とは何か」という問いが問われます。まずは「日本とは何か」という問いに答えたいと思います。そこでは、神道や仏教や儒教などを含めた日本史上における伝統に対し、それらを紡いで来た・紡いで居る・紡いで行くという共通意識が想定されています。それを踏まえた上で、私なりにこの問いに思想的に答えると、次のようになります。
問:日本とは何か?
答:日本とは、
日本政府(国見)・日本人(国人)・日本列島(国方)を合わせたものであり、
日本の伝統(神道・仏教・儒教など)を紡いで居ることです。
日本は、土着の自然信仰を含めた広い意味での神道を基盤として、長い歴史を紡いで来ました。日本の基礎に、自然崇拝や祖先崇拝という「神道的なもの」があるのは間違いのないところです。その神道を基にして、様々な思想を受け入れ、取り入れてきました。
その中でも、日本を基にして、日本に受け入れ、日本風に取り入れ、日本化したものとして仏教と儒教が考えられます。誤解を恐れずに言ってしまえば、「日本の仏教」は「本来の仏教」とは別物であり、「日本の仏教」は日本のものとなっています。儒教も、朱子学の硬直性へと進んだ大陸の儒教とは異なり、孔子の教えを受け継ぎながらも日本独自のものとして、つまりは「日本の儒教」として展開していきました。「日本の仏教」も「日本の儒教」も、既に日本のものと言っていいでしょう。言ってしまいます。ですから、日本の思想は「日本の神道」と「日本の仏教」と「日本の儒教」という基本思想の調和の上に築かれているのです。
そこでは、三つの思想がただ「在る」というよりも、三つの思想の間に「居る」とか、「住んでいる」とか、「馴染んでいる」などの表現が似合います。ですから、日本が他の思想からの影響を受けた際にも、これら神道・仏教・儒教の間において取り入れているように思われます。それは、日本の永く連続した歴史の流れの中で、磨かれ洗練された膨大な財産に基づいているということです。日本史の伝統は、神道と仏教と儒教の間において紡がれているのです。逆に、これらの埒外で取り入れた思想は、どこかに歪みがあるように私には感じられます。それは、日本の歴史という財産を不当にも無視した、日本人ならぬ列島人(劣等人)の浅知恵だと思われるからです。
このことを踏まえた上で、次に「日本人とは何か」という問いに答えたいと思います。まず、三つの思想の間で伝統を紡ぐとき、その場所は、「無常」と呼ばれうると思われます。日本人は「無常」に居るのです。「儚(はかな)い」と称される、神道や古来の自然観に基づく世界の観方があります。本居宣長(1730~1801)は人の情について、〈さて人情と云ふものは、はかなく児女子のやうなるかたなるもの也(『排蘆小船』)〉と述べています。かたなる(片生る)とは、未熟なさまのことです。人の情とは、未熟で儚いものだというのです。「儚(はかな)い」の「はか(計・量・捗)」は、範囲や量の単位であり基準のことです。つまり基準が無いということが、儚いということなのです。その儚(はかな)しが、仏教の持つ無常と強く結びつきました。儚く無常な世の中は、日本人の心の世界です。このことは、天を不可知的なものと見るように、儒教の需要の仕方にも影響を与えています。この無常の場所において、神道と仏教と儒教が築かれてきたのです。
では、この無常の場所において、神道と仏教と儒教は、何を為すのでしょうか。神道は、天皇を祭祀とする惟(かん)神(ながら)の道です。仏教は、仏陀の教えを正しい道としています。儒教は聖人の道を学びます。神道・儒教・仏教は、どれも道を行うという営為です。神道は神の道であり、仏教は仏道とも呼ばれ、儒教は儒道とも称されます。神道・仏道・儒道の三つから影響を受けながら、日本独自の思想展開を魅せた武士道や町人道、芸道や政道なども、やはり道という言葉で表されています。つまり、日本人は、道を行くのです。
この道を行くという営為は、日本語(大和言葉)によってなされます。日本人にとって日本語は欠かせません。特に、和歌は必須です。日本語により歌を詠うのが日本人です。大和(やまと)言葉(ことば)がそのまま大和歌(やまとうた)を意味することからも、日本人にとって歌を詠うということは、狭義には和歌を指し、広義には日本語による言語活動全般を意味します。
例えば、『古今和歌集』の[仮名序]には、〈やまとうたは、人のこころをたねとして、万の言の葉とぞなれりける〉という美しい言葉ではじまります。和歌は、人の心に基づいて、たくさんの言葉となるのです。続いて、〈世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり〉とあります。人は、為したり行ったりすることが多いため、心の中で思うことを、見たり聞いたりすることに託して言うのです。そして、このことは人間に限りません。〈花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける〉と詠われています。日本では、生きとし生けるもの、そのすべては歌を詠うのです。歌の言葉は、言霊であり力を持ちます。〈力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり〉というわけです。
つまり、無常において道を行くという営為は、和歌などの日本語を用いて行われるのです。日本人は歌を詠うのです。日本には様々な道があり、当然、和歌の道もあります。本居宣長の歌論『石上私淑言』には和歌の道について、〈たゞ物のあはれをむねとして、心に思ひあまる事はいかにもいかにもよみ出づる道也〉とあります。歌の道には、もののあはれがあるのです。日本では和歌の道を「八雲の道」や「敷島の道」と呼びます。八雲の道は、日本神話に基づいた表現です。『続古今和歌集』には、〈雲居より馴れ来たりていまも八雲の道に遊び〉とあります。日本人は八雲の道に遊び、歌を詠うのです。一方、敷島は大和あるいは日本を意味しますから、敷島の道は「日本の道」になります。日本人は、和歌の道を行き、日本の道を行きます。『新古今和歌集』の[仮名序]には、〈大和歌は、昔天地開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵝の里よりぞ伝はれりける。しかありしよりこの方、その道盛りに興り、その流れ今に絶ゆることなくして、色に耽り心を述ぶるなかだちとし、世を治め民を和らぐる道とせり〉とあります。日本の歌は古代から日本の言葉として伝わった歌の道であり、盛んに興って今に至るまで絶えることなく続き、色や心を伴って世を治めて民を和らげる道だというのです。和歌を詠わなくなったら、日本語を話さなくなったら、それはもう日本人とは言えないでしょう。日本史において、和歌などに代表される日本語(大和言葉)は、圧倒的な存在感を誇っています。
さて、ここまでで、日本人とは何かという問いに対する準備は整いました。日本人とは何かという問いに答えたいと思います。
問:日本人とは何か?
答:日本人とは、儚く無常な世の中で、日本語の歌を詠い、道を往く者たちです。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。