『日本式 正道論』序章 世界と国家と人生、そして道

第六節 日本国

 ここで国家について考えるために、日本史における国という言葉の変遷を見ていきます。
 『古事記(712)』や『日本書紀(720)』などの日本神話には、神々の住む天界の「高天原」や、日本の別名である「大八洲国(葦原中国)」、死者の住まう「黄泉の国(根の堅州国)」などが記されています。高天原と大八洲国の表現の違いから分かるように、「国」は「天」に対して「地」にあるものを指し示しています。
 『大宝律令(701)』では、「国家」という語で「天皇」を表しています。天皇の尊号を、直接的に称するのを憚ったためだと言われています。日本という国家にとって、天皇という存在が重要な意味を持つことが分かります。
 天台宗の最澄(767~822)は、『内証仏法相承血脈譜』において「三国」という表現を使用しています。三国とは、日本・唐土(中国)・天竺(インド)のことです。昔の日本人にとっては、この三国がそのまま世界として捉えられていたのです。この考え方は、長いあいだ日本人の思想に影響を与えました。
 紀貫之(870頃~945頃)の『土佐日記』には、国という言葉がいくつかの意味に使い分けられています。〈唐土とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ〉という文章では、「この国」が「日本」を意味しています。唐と日本とは言葉は違いますが、月の光は同じはずですから、人の心も同じなのだと語られているのです。また別の箇所では、国が郡の意味で使われたり、故郷の意味で使われたりもしています。
 鴨長明(1155~1216)は、〈わが国は、昔、伊弉冉(イザナミ)、伊弉諾(イザナギ)の尊(みこと)より、百王の今にいたるまで、久しく神の御国として、その加護なほあらたなり(『発心集』)〉と述べています。日本国が、神の御国として考えられていることが分かります。
 慈円(1155~1225)は、〈日本國ノナラヒハ、國王種姓ノ人ナラヌスヂヲ國王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル國ナリ(『愚管抄』)〉と述べています。日本国は、天皇家の血筋によって保たれていることが分かります。
 浄土真宗の親鸞(1173~1262)は『高僧和讃』において、〈日本一州ことごとく 浄土の機綠あらはれぬ〉と述べ、日本における浄土を願っています。
 日蓮宗の日蓮(1222~1282)は、『立証安国論(真筆)』で「くに」の文字の書き分けを行っています。「国」の使用回数が十五回、「國」の使用回数が一回で、「□」の中に「民」で「くに」とする文字が五十二回です。「□」の中にどのような文字が入るかで、「くに」という言葉によって強調すべき要点を表しています。「くに」という言葉の使い分けの比較から、日蓮が「くに」と「民」を密接に結び付けて論じていることが分かります。また、『報恩抄』では、〈日蓮は日本国のはしらなり。日蓮失うほどならば日本国のはしらをたをすになりぬ〉と述べています。自分が日本を支えているのだという自負が伺えます。
 北畠親房(1293~1354)は、〈大日本者國也。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ。此故ニ神國ト云也(『神皇正統記』)〉と述べています。受け継がれてきた伝統によって、日本と他国を区別していることが分かります。
 戦国時代では、戦いの単位である大名の領土が「国」として用いられる場合があります。このことは、時代の状況によって、国の意識の範囲が揺れ動いていることを示しています。朝倉孝景(1428~1481)は家訓『朝倉栄林壁書』において、〈国を見事に持成も、国主の心づかひに寄べく候事〉と述べ、越前守護大名の領有する地域に対して国という字を用いています。また、毛利元就(1497~1571)は子息(隆元・元春・隆景の三人)にあてた『毛利元就書状』において、〈誠手広く五ヶ国・十ヶ国之操調にて候〉と述べています。ここでも、戦国大名の領有する地域に対して国の文字が用いられています。安芸の領主から身を起こして、安芸・備後・石見・長門をはじめその周辺の諸国を征服して支配・介入できるようになった状態について語られています。
 江戸時代に入ると、幕府の海禁政策(いわゆる鎖国)の影響から、国の文字が藩単位で用いられることが多くなります。海禁政策とは、外交・貿易の権限を幕府が制限・管理することを指します。本多正信(1538~1616)は、〈国家ヲ治メントスレドモ治メル可キ本ナケレバ治ラズ。其本ト云ハ国主郡主ノ御心ナリ(『治国家根元』)〉と述べています。ここでいう国家は徳川幕府や藩を指し、国主は国持大名であり、郡主は小大名や上級旗本などを指しています。また、山本常朝(1659~1719)は、〈御国家を治め申上えの忠節、何か有る可きや(『葉隠』)〉と述べ、国家を佐賀藩とし、選び出されて佐賀藩を治めるという忠節よりほかになにがあろうか、と語っています。
 海禁政策下でも、オランダなどを通じて諸外国の情勢や学問を研究することはできました。しかし、庶民に情報が制限されていたのも事実です。そのため、日本という単位を「国」とすると、日本の正しさを他国と比較することが難しくなります。正しさは、比較対照を失うと暴走するか、脆弱化します。そのため、「国」が藩という単位で認識されたのだと思われます。そうすると、その藩(国)の掲げる正しさが、他の藩(国)と比較可能になります。正しさは、比較すべき他の正しさがなければ、自身の正しさを保てないのだと思われます。
 例えば福沢諭吉(1835~1901)は、〈各国の交際と人々の私交とは全く趣を異にするものなり。昔し封建の時代に行はれたる諸藩の交際なるものを知らずや、各藩の人民必ずしも不正者に非ざれども、藩と藩との附合に於ては各自から私するを免かれず。其私や藩外に対しては私なれども、藩内に在ては公と云はざるを得ず。所謂各藩の情実なるものなり。此私の情実は天地の公道を唱て除く可きに非ず、藩のあらん限りは藩と共に存して無窮に伝ふ可きものなり。数年前廃藩の一挙を以て始めて之を払ひ、今日に至ては諸藩の人民も漸く旧の藩情を脱するものゝ如しと雖ども、藩の存する間は決して咎む可らざりしことなり。僅に日本国内の諸藩に於ても尚且斯の如し(『文明論之概略』)〉と述べています。福沢諭吉は、封建時代では藩が基本単位であり、廃藩の後は日本が基本単位になったと考えているのです。
 ただし、江戸時代には藩を「国」とする考えと同時に、日本を「国」とする考えも当然ながら見られます。水戸藩の第二代藩主である水戸光圀(1628~1700)は、〈毛呂(もろ)己(こ)志(し)を中華と称するは、其の国の人の言には相応なり、日本よりは称すべからず。日本の都をこそ中華といふべけれ。なんぞ外国を中華と名づけんや。其のいはれなし(『西山公随筆』)〉と述べ、日本人は日本を中心に考えるべきことを説いています。
 井原西鶴(1642~1693)の『日本道にの巻(西鶴独吟百韻自註絵巻)』には、〈和歌は和国の風俗にして、八雲立御国の神代のむかしより今に長く伝て、世のもてあそびとぞなれり〉とあります。また、〈日本道に山路つもれば千代の菊〉とあり、日本の街道の里程に山路の里程までを加えるなら、千年も保つという菊の寿命のように尽きることがないと述べています。近松門左衛門(1653~1724)の『国性爺合戦』には、〈日の本とは日の始、仁義五常情有り〉とあります。
 荷田在満(1669~1736)の『国歌八論』には、〈日本はわが万世父母の国なれども、文華の遅く開けたる故に文字も西土の文字を用ゐ、礼儀・法令・服章・器財等に至るまで悉く異朝に本づかざるはなし。ただ歌のみわが国自然の音を用ゐて、いささかも漢語をまじへず〉とあります。和歌に日本の独自性を見出していることが分かります。
 学者である富永仲基(1715~1746)の『出定後語』には、〈道を説き教へをなすは、振古以来、みな必ずその俗によつて、もつて利導す〉とあります。振古以来とは、昔からという意味です。その上で、〈竺人の、幻における、漢人の、文における、東人の、絞における、みなその俗しかり〉とあります。印度人が「竺人」であり、「幻」とは化幻性、神秘的性癖のことです。中国人が「漢人」であり、「文」は文辞性、修飾的性癖のことです。日本人が「東人」であり、「絞」は絞直性、秘密的性癖のことです。仲基は、〈言に物あり。道、これがために分かる。国に俗あり。道、これがために異なり〉と述べています。言語思想の形成条件の相違によって思想に違いがあり、地方固有の風俗習慣が行なわれることで風土的差異が思想に影響するというのです。
 本居宣長(1730~1801)の『鈴屋答問録には、〈國とは、上代には一縣一郷ほどの所をもいひつれば、其地、其地に、國生ノ神は有べし〉とあります。国には、国ごとに根付いた神が居るというのです。その上で日本については、〈皇統の動きたまはぬを本として、其外にも他國にまされることの多きぞ、天照大御神の御本國のしるしにして、他に異なる也〉と語られています。
 上田秋成(1734~1809)は、〈他国の聖の教も、ここの国土にふさはしからぬことすくなからず(『雨月物語』)〉と述べています。ここでの他国は漢土(中国)であり、ここの国土とは日本のことを指しています。
 以上のように海禁政策下では、日本という単位と藩という単位が、それぞれの立場に応じて国という言葉で使い分けられていました。海禁政策が緩和(いわゆる開国)されると、国の使用例も日本という単位で統一されていきます。
 佐久間象山(1811~1864)は『省諐録(せいけんろく)』において、「一国」で松代藩を指し、「天下」で日本全体を意味し、「五世界」で五大洲、つまり地球全体を表現していました。しかし、後の『象山書簡』では「国」という言葉を日本全体の意味で用いる傾向がきざしています。国ないし国家を藩の意味で用いる傾向と、日本全体の意味で使う新しい傾向とが、時代の変遷により変化していくのが分かります。
 江戸末期の政治家である横井小楠(1809~1869)は、〈我国の万国に勝れ世界にて君子国とも称せらるるは、天地の心を体し仁義を重んずるを以て也。されば亜墨(あめ)利(り)加(か)・魯(ろ)西亜(しあ)の使節に応接するも、只此天地仁義の大道を貫くの条理を得るに有り(『夷虜応接大意』)〉と述べています。日本を我国とし、新しく登場したアメリカ(嘉永六年六月三日浦賀に入港したアメリカ使節ペリー)やロシア(同七月十八日長崎に来航したロシア使節プチャーチン)と対峙させています。
 哲学者の西周(1829~1897)は、〈国とは何等を指して国と云ふべきものなるや。徒に土地あるを以て云ふ語にあらず。土地ありて人民あり、人民ありて政府ある之を国と云ふ。則ち英語state.国の字は元と或の字なり。其を境界して国と為すの字なり(『百学連関・総論』)〉と述べています。日本語の「国」と英語の「state」との通約が見られます。
 評論家の山路愛山(1865~1917)は、〈今日において日本は世界の日本なりというはなお徳川時代において薩摩は日本の薩摩なりというがごとし。世界は一の完璧なり。日本はその一部分なり。二者決して分つべからず。世秋を知らずして日本を知らんとし、世界の歴史を解せずして今の日本に処らんとするは、なお昔の日本を解せずして薩摩に処らんとするがごとし(『日本現代の史学および史家』)〉と述べ、国と世界との関わりについて言及しています。
 哲学者の西田幾多郎(1870~1945)は、〈外国の事物を研究しても、そこに日本精神が現れると云うことを忘れてはならない。そしてそれが逆に日本的事物に働くのである(『日本文化の問題』)〉と述べています。また、〈歴史的世界には、自己自身を形成する自覚的世界が含まれて居るのである。これが国家と云うものである。歴史的世界は、国家として自覚するのである。国家形成と云うものを予想せないで、歴史的世界と云うものなく、歴史的世界と云うものを前提とせないで、国家形成と云うものはない(『国体』)〉とも述べています。国家は歴史の上に形成されることを強調しています。
 以上のように、日本史において、「国」および「日本という国」の姿が示されています。国については、歴史的伝統的な相違によって、自国の正しさと他国の正しさを比較することが必要となります。その必要性の関係性において、国家の境界線は引かれるのです。

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