ナショナリズム論(2) 対E・ルナン
- 2014/5/17
- 思想
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西洋のナショナリズム論
前回に論じたことを念頭に置きながら、西洋のナショナリズム論を参照していきます。
有名どころから、E・ルナン『国民とは何か』・アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』・ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』・アントニー・D・スミス『ネイションとエスニシティ』・E・J・ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』などを題材にして論じていきます。
歴史上の国民
まずは、E・ルナン(Joseph Ernest Renan, 1823~1892)が、1882年にソルボンヌで行った講演『国民とは何か』を参照していきます。一読してみると、ルナンが述べている国民は新しい現象のようにも思えてきます。しかし、ルナンの述べていることを注意深く読むと、近代以前にも類似例があることが分かります。
古典古代には都市国家の共和国や王国、地域共和国の連邦、帝国などがありましたが、私たちが理解する意味での国民はほとんど存在しませんでした。アテナイ、スパルタ、シドン、ティルスは、驚嘆に値する愛国心を備えた小中心地です。しかし、これらの都市国家は比較的限られた領土の上に成立したものです。
実例数の違いや傾向性に相違はあるにしても、人類史の中に愛国心などの国民意識を見つけることは十分に可能です。ルナン自身は、過去にほとんど存在しなかったことを強調したいようですが、ここでは過去にも実例があるということに注目したいと思います。
過去と現在と
ルナンは、〈精神的原理の創造のためには不十分なもの〉として、〈種族、言語、利害、宗教的類縁性、地理、軍事的必要など〉を挙げています。その上で、次のように述べています。
国民とは魂であり、精神的原理です。実は一体である二つのものが、この魂を、この精神的原理を構成しています。一方は過去にあり、他方は現在にあります。一方は豊かな記憶の遺産の共有であり、他方は現在の同意、ともに生活しようという願望、共有物として受け取った遺産を運用し続ける意志です。
ルナンは国民の過去と現在について言及しています。ここで、エドマンド・バークが1790年に出版した『フランス革命の省察』で示した考え方を参照しておきます。バークは国家について、現存する者と既に逝った者に加え、将来生を享くべき者についても言及しています。この認識を参照するなら、過去と現在の国民に加えて、未来の国民のことも考慮しておいてしかるべきでしょう。
日々の(内外の)人民投票
国民については、かの有名な「日々の人民投票」が示されています。
国民とは、したがって、人々が過去においてなし、今後もなおなす用意のある犠牲の感情によって構成された大いなる連帯心なのです。それは過去を前提はします。だがそれは、一つの確かな事実によって現在のうちに要約されるものです。それは明確に表明された共同生活を続行しようとする合意であり、欲望です。個人の存在が生命の絶えざる肯定であると同じく、国民の存在は(この隠喩をお許しください)日々の人民投票なのです。
ここでの人民投票は隠喩なので、実際に投票が為されていないという批判は的外れでしょう。共同生活を続行しようとする合意が大勢を占めることで、国民の存在が維持されるという考え方は参照に値します。
ただし、ここで注意すべきは、国民の存在は他国民の合意によっても左右されてしまうということです。ある人民の集まりが国民であることを望んだとしても、他国からの暴力に晒されて瓦解してしまうことは十分にありえます。現在のチベットやウイグル、台湾の問題などを考えてみると分かるかと思います。つまり、国民および国家は、その内部と外部からの合意によって形成されることになるということです。このことは、自覚しておくべきことです。
ルナン説の考察
ルナンは、〈諸国民の存在はよいものであり、必要〉と述べています。なぜなら、〈それらの存在は、もし世界に一つの法、一人の主人しかいなかったら失われてしまうであろう自由の保証〉と考えられているからです。
つまり、共通の道徳意識を持つ国民が複数存在している世界は、単一の道徳意識しか存在していない世界よりも、より良いものだとルナンは考えているのです。私もこの意見に同意します。ルナンの言う〈国民と呼ばれる道徳意識〉が必要なのです。なぜなら、道徳というのは完全・完璧・完成に至ることはありえないからです。そのため、複数の道徳意識によって、互いへの掣肘が重要になってくるのです。
世界に複数の国民が存在しているということは、世界市民で統一されている状態よりも、より良いと考えることができるのです。
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