秀逸な『永遠の0』論のご紹介
- 2014/11/1
- 歴史, 社会
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西田幾多郎や日本思想を論じたものということで興味を惹かれ、佐伯啓思さんの『西田幾多郎 無私の思想と日本人』を読んでみました。
本書は西田幾多郎の哲学を基に議論が進んでいくのですが、第五章が「特攻精神と自死について」と題されており、百田尚樹さんの小説『永遠の0』についても言及されていました。その議論が秀逸でしたので、少しだけ紹介させていただこうと思います。
偉大な作品の偉大な評価について
『永遠の0』は、司法浪人生の佐伯健太郎が、実の祖父であり特攻で戦死した宮部久蔵の人生を、戦後に生き残った人物に話を聞いて追って行くストーリーになります。
本作品は大ヒットしましたので、数多くの人が論じています。論評の中には誤解に基づくものや、単なる誹謗中傷もあります。しかし、やはり偉大な作品にはそれに見合った解説が必要です。私個人の判断ではありますが、佐伯さんの『永遠の0』論は素晴らしい水準に達していると思います。まさしく、本物の知識人による言論を見ることができます。それは、とても贅沢なことではないでしょうか?
ピースを集めた一枚絵
『永遠の0』は、一見すると宮部の動機や心情が分かりにくいと感じられるかもしれません。それは、生き残りの人物たちの証言が宮部のピース(小片)となっているからです。宮部の孫である健太郎が、宮部と関わった生き残りの人たちの証言を聞いていくことで、いくつものピースが合わさり、宮部という人物が浮かび上がるように緻密に構成されているのです。
ですから、それぞれの読者がそれらのピースを集めて、うまく配置していくことで、すなわち作品をきちんと要約することで、宮部の生き様が明らかになる仕掛けになっているのです。ですから、作品に対する真摯な姿勢が問われることになるのです。
佐伯さんは、第五章の開始から3ページ(p.104~106)にわたって、『永遠の0』を見事に要約しています。そこでは、各ピースが綺麗にはめ込まれた見事な一枚絵を見ることができます。この要点を押さえたまとめ方、それを表現する文学的能力はさすがの一言です。これ以上の要約は私には無理ですので、私による『永遠の0』の要約作業は中止となりました(笑)。
その愛をどう考えるのか
作中において宮部が妻子へ向ける愛についても、佐伯さんによって適確な評価が為されています。『永遠の0』では、ここをどう正確に捉えることができるのかが、論者の思想的および社会学的な力量を示すことになります。
佐伯啓思『西田幾多郎 無私の思想と日本人』より
これは情緒的な「愛」という問題ではない。むしろ「責任」というべきでしょう。妻子への責任があり、父母への責任がある。あるいは、私を愛する恋人への責任がある。「愛」とは、こちらから相手へ向けた一方的な感情などではなく、私を必要として愛してくれるものへの責任なのです。だからこそ、この責任は「国」へもむけられるのです。「愛国心」というものも、情緒や感情の問題ではなく、本質的には、集団への責任の問題なのです。かくて、妻子や父母や「愛する者」は、表象的に「国」と重ね合わされてきます。「愛する者」を守ることが「国」を守ることと重なってきます。
『永遠の0』における「愛」という言葉の本質が、「責任」にあることが指摘されています。これは、極めて重要な観点です。この見解を踏まえれば、宮部が妻子のために生を願いながらも、最期には特攻を選んだことにも納得がいくというものです。映画版では物語のラスト間近に、「あの人は死ぬのを恐れていたのではない」と明言されてもいます。つまり、宮部久蔵は自身の「生」も「死」も、責任感に基づいて考えていたということです。その思考にいたった読者は、私的に見えたものが公的なものに基づいていたことに気づかされるのです。もちろん、妻子や父母に対する責任と、国に対する責任には矛盾が存在しています。その矛盾についても、西田哲学に触れながら、佐伯さんによって丁寧に考察が進められています。
永遠の今と永遠の無
さらに第五章の最後では、特攻などにおける「無」への決断が、つまりは「死」への決断が、西田幾多郎の「永遠の今」と関連づけられています。「永遠の今」は「永遠の無」へと繋がり、「永遠の無」が「永遠のゼロ(零)」であることが暗示されるのです。哲学的でありながら、芸術的でもある美しい表現だと思います。
西田幾多郎『永遠の今の自己限定』より
真に永遠の今というべきものはプラトンの考えた如き永遠不変の意味ではなくして、その各(おのおの)の点に於て無限の過去無限の未来を消すことのでき、それに於て何処でも何時でも時が始まると考えることのできる絶対無の自覚という如きものでなければならない。
良心の声に従うというのは単に理性的となることではなく純なる情意の要求に従うことでなければならない、唯、考えられた自己を棄てることである、私欲を離れることである、無にして自己自身を限定するものとなることである、永遠の今の自己限定の内容は広義に於て良心の声として現れるのである。
西田幾多郎『場所的論理と宗教的世界観』より
死とは、自己が永遠の無に入ることである。
『永遠の0』という作品については、どのように評価するかによって、その人の思想的なあり方が否応もなくあらわになってしまうように思われます。
もちろん「西田哲学」論も秀逸です
注意してほしいのですが、佐伯さんの、『西田幾多郎 無私の思想と日本人』の中で『永遠の0』を論じた箇所は、全体のごく一部でしかありません。第五章が「特攻論」であり、その一部として『永遠の0』を参照しているにすぎません。
私も、『永遠の0』をどう評価すべきか色々と考えてきました。しかし、その構想案を軽々と超えた内容を、しかも西田哲学に絡めたわずかな文章で見事に表現しているのを見せつけられては、素直に賞賛するしかありません。本物の言論が明らかにされたとき、悔しいという感情よりも感嘆の方が上回ってしまったということです。
本書の一部からしてこの出来なのですから、他の箇所も非常に面白いわけです。日本思想に興味があり、かつ西田幾多郎が問題としていた箇所の要点をつかんだ者には、本書は非常に魅力的に感じられることでしょう。
西田哲学について佐伯さんが論じている箇所には、考えてみるべき論点がたくさんあります。難しい本だとは思いますが、たまにはじっくりと高度な思想に触れてみるのも良いものだと思います。お勧めです。
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