いろは歌の美しさ

無常観

 いろは歌など無用、と考えていた私の人生にも色々ありました。高校の倫理の教科書で、日本人の考え方の基底には、無常観と呼ばれる感情があることも学びました。
 紆余曲折があり、私は日本の思想と真摯に向き合うことになりました。日本古代の『古事記』『日本書紀』『万葉集』という作品から一貫して、日本史には無常観が流れ続けています。『古今和歌集』や『新古今和歌集』などの勅撰和歌集と呼ばれる作品には、多くの無常を詠った歌を見つけることができます。『方丈記』や『徒然草』といった随筆にも、無常観がきわめて高いレベルで語られています。『源氏物語』『平家物語』『太平記』といった物語は、美しくも儚い無常観を基底として物語が進行していきます。
 私は無常観を解説する本にも手を伸ばしました。竹内整一の『「はかなさ」と日本人』、森三樹三郎の『「無」の思想』、磯部忠正の『「無常」の構造』、本田義憲の『日本人の無常観』、唐木順三の『無常』、平岡定海の『無常のうた』、西田正好の『無常の文学』、小林智昭の『無常感の文学』などを次々に読んでいきました。私が素晴らしいと感じた文章を、二つほど紹介してみます。

【磯部忠正『「無常」の構造』より】

 全知全能の造物主とか、絶対的真理とかを想定して、これへの信仰、これの探求によって、人間世界の秩序を維持する行き方とは異なり、人のこころの不安定のままに漂ったり、流されたりするおそれがある。そのとおりである。しかしわたしはあえて言ってみたい。日本人はいわゆる「絶対者」を採らず、この一見不安定な「人のこころ」に生を賭けているのであると。さればこそ日本人は「人の心をたねとする」歌(『古今集』序)に、不思議な、郷愁にも似た愛情を覚えるのではないか。

【唐木順三『無常』より】

 無常を語る場合、きはだつて雄弁になり、それを書く場合、特に美文調になるといふ傾向がきはめて顕著であるといふことが、日本人のひとつの特色といつてよいだらう。無常が死とのつながりをもつて考へられるとき、それは人生における異常なことである。異常なことの表現が美文調や雄弁となることは異常のことではない。

 無常を巡り、日本の思想は美しく描かれています。
日本の古典およびその解説書を通じて、私の思考は、それまでとは違ったものへと深化していったのです。

いろは歌の無常観

 無常観を解説した本には、日本の無常観を示すものとして「いろは歌」が紹介されていました。
 いろは歌は、『大般涅槃経』の中にある偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅為楽」を日本語で表現したものだという説があります。

【『密厳諸秘釈』の説より】
色は匂へど 散りぬるを  (諸行無常)
我が世誰ぞ 常ならむ   (是生滅法)
有為の奥山 今日越えて  (生滅々已)
浅き夢見じ 酔ひもせず  (寂滅為楽)

 いろは歌は、空海の作品だという説もありましたが学術的に否定されています。無名の大乗仏教徒の手によるこの作品は、日本人の中に今でも息づいています。
 日本思想に触れた私には、いろは歌はそれまでと違ったものに見えるようになりました。いろは歌が、たとえようもないほどに美しいものに感じられたのです。この経験は、私にとって文字通り衝撃的でした。
 いろは歌が美しいと(主観的に)心から感じられること、この感動のために私は、日本人として生まれてきたのだとすら思えたのです。そして、実際にその境地に至ったことで、私の人生は(私にとって)価値あるものになったのです。
 この私の言い方は、大げさに感じられるかもしれません。それどころか、まったく理解できない人も多いことでしょう。それも尤もなことです。かつての私のように、いろは歌は無用だと考えることは論理的だからです。
 しかし、私のこの感覚にいくばくかでも共感してくれる人もいると思います。そのような人たちと共に、私は日本人の感情において、論理を紡ぐことになります。ここにおいて、日本人の無常観という感情を基に、日本の思想が展開されることになるのです。
いろは歌、このもの悲しく無常観が漂う歌を、日本人は不思議な魅力をもって親しんできたのです。そして、おそらくこれからも。

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西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
ウェブサイト「日本式論(http://nihonshiki.sakura.ne.jp/)」を運営中です。

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