夢と現実の境界
- 2016/5/20
- 思想, 社会
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明晰夢
さて、少し前に、夢の中では、基本的にそれが夢の世界だと意識されないと述べました。しかし、もちろん例外もあります。夢の世界で、それが夢だと自覚できる場合はありえます。その夢は、明晰夢(めいせきむ)と呼ばれています。夢であることを自覚できる夢ですね。明晰夢においては、夢から覚めることも、夢に留まることもある程度コントロールできるそうです。明晰夢の場合は、夢と現実の問題をどのように考えれば良いのでしょうか?
いくつかの見解が考えられるように思えます。私の見解を述べておくなら、通常の(夢だと意識されない)夢の場合は、その夢が現実になります。一方、明晰夢の場合は、夢だと意識されているその根拠を与えている世界が現実と見なせます。そのとき、その明晰夢は、現実に根付いた夢であり、現実世界に含有されます。
現実の世界においてSFの世界を空想していても、その空想の世界を含めた現実世界に居ることになります。同様に明晰夢も、夢という世界を含んだ現実世界に居ると考えることができます。やはり、意識が今居ると措定している世界が現実となり、それに付随する世界は、その現実世界に含有されることになるように思えます。
現実を決める異なる要因
さて、私は現実を決定する要因を、“私”の“今”と述べました。しかし、その要因とは異なる解釈もありえるでしょう。敢えて言うなら、「“私”の“今”」とは異なる「私の現実」がありえるということです。どういうことでしょうか?
具体的な例で示しましょう。例えば、あなたは医者だとします。
たとえ話
あなたの職業は医者です。患者の中に、長いあいだ植物状態になっている人物がいます。
生命維持装置は完璧に作用しており、患者の脳波は安定を保っています。その脳波から、患者は何らかの夢を視ていることが推測されています。また、その夢は快適なものであることも脳波から分かっています。
あるとき、患者が目を覚まします。数十年におよぶ長い眠りからの目覚めです。患者は混乱し、泣きわめきます。あなたは患者に説明を繰り返し、何とかここが現実であると言い含めます。患者へ、長いこと植状態で眠っていたことを理解させるのです。患者は何とか気持ちの折り合いを付け、この現実で生きていくよう努力しはじめます。しかし、やはり眠っていたハンディキャップは大きく、患者はこの現実で生きていく希望を失います。患者は、医者であるあなたへ言うのです。
「先生。私はこの現実で生きていくことは不可能です。いえ、そもそもこの現実で生きていきたくないのです。私が植物状態だったとき、私は夢を視ていました。その夢の中で、私はそれなりに幸福に暮らしていたのです。私は、その生活に戻りたいのです。あの生命維持装置のことも調べました。装置を特殊な設定にすれば、私はまたあの夢の世界へ戻ることができます。そして、もう二度とこの現実の世界で目覚めることはありません。先生、私を夢の世界へ戻してください。」
その患者の依頼を受け、あなたはこう返します。
「あなたはいったい何を言っているのですか? そんなことが許されるわけがないでしょう? ここが現実なのです。あなたは、この現実の世界で生きなければなりません。気を確かにもってください。」
「先生、そんなことを言わないでください。私にとっては、先生が言う夢の世界こそが“現実”だったのです。いいえ、今でもそうなのです。ここは、悪夢にしか思えません。私の現実の世界は、ここではないのです。先生、私を私の現実の世界へと戻してください。」
患者の切実な眼差しを受けながらも、あなたは無慈悲に告げるのです。
「仮にあなたの現実が生命維持装置による眠りの中にあるのだとしても、私の現実はこの世界です。私は医者として、私の現実において患者と接します。それが、医者としての私の義務だからです。」
現実という言葉の使われ方
人は何をもって特定の世界を現実だと見なすのでしょうか?
端的に言うのなら、それを決めるのは“私”の“今”になります。しかし、そこには異なる要因が作用し、我々の言葉遣いを形作っています。異なる要因が交じりあって、我々は現実という世界を形作っているのです。とても不思議な話ではないでしょうか?
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