常識論における悪意なき害悪

常識への疑問

 常識の枠外に居る人が、常識の枠内を目指す場合に、かなり特殊なケースがあります。その一つに、常識の検討を必要とするものがあります。どういうことかと言うと、次のようなことを考えてしまう人間がいるということです。

世の中には常識というものがあり、どうやら皆はそれを当たり前だと見なしていて、それによって世の中がまかりなりにも成り立っているようだなぁ。不思議だなぁ。

 常識はいくつもあり多様ですから、どの常識についてそのような疑問を抱くかは個人差がありますが、とにもかくにも、このような疑問を抱いてしまう人間はいるのです。そのような人間は、その疑問を捨て去るか、納得できる論理を追究するかの選択を突きつけられることになります。
 多くの人々は、大人になるにしたがって、疑問を捨て去ったり、忘れてしまったりします。しかし、疑問を捨て去ることができず、否応にもその論理を追究してしまわざるをえない人間がいるのです。なぜなら、その疑問はその人にとって切実で大切な問題だからです。他の人がどう思おうとも、その人にとってはそうだということがありえるのです。
 挨拶という常識を例にとるなら、挨拶は何のために必要なのか考え込んでしまう人がいるということです。

常識の深淵

 常識へたどりつくためには、深淵が横たわっています。その深淵は、見える人には見え、見えない人には見えないものなのです。
 深淵を見る者は、その深淵にはまり込み、のたうち回ることになります。人類史上の偉大な思想や哲学の一部には、こういった深淵からはい上がろうとした成果が残されています。それは、普通の人々のように常識を自明だとは思えず、何とか深淵を乗り越えて普通の人々の場所へ向かおうとした営みの結果なのです。実際に乗り越えているか否かはともかくとして・・・。
 この種の問題に取り組む人は、ある種の哲学的感度が高く、社会学的に言うと普通の生活が難しい人物になりがちです。例えばウィトゲンシュタインは、「哲学者は、病気をとりあつかうように、問いをとりあつかう(『哲学探究』第225節)」と述べています。ここには、哲学的な問題とその解決が、病気とその治療の対比として示されているのです。

悪意なき害悪

 常識の深淵に取り組んでいる人は、普通の人(常識を自明視している人)から、ときとして残酷な言葉を投げつけられます。例えば、「そんな細かい問題にこだわって何になるんだ」とか、「普通に考えればいいだけだろ」とか、「実際にこれで問題ないじゃないか」などと言われるわけです。これは、「悪意なき害悪」とでも呼ぶべき現象です。
 このことがピンとこない方には、肉体的な健常者と障害者の違いで考えてみると分かりやすいでしょう。障害者が健常者と同じように働こうともがいているときに、健常者から投げつけられる残酷な言葉への不快感と同じ問題が、ここにはあるのです。
 ただし注意が必要な点は、肉体的な問題はまだ目に見える特徴があるため分かりやすいのですが、常識の問題は精神的なものであるために分かりにくいことです。そのため、常識側に立った良識派から、この微妙で繊細な問題がズタズタに切り裂かれてしまうことが多々あるのです。彼らは、善いことをしていると思って、そうしているのです。ここに、「悪意なき害悪」という現象の本質があるのです。

常識の議論

 常識を巡る議論には、常識側の良識派からの「悪意なき害悪」がありえます。しかし、問題の根は深く、「悪意なき害悪」を止めてくれという依頼は、深淵が見える者と見えない者の非対称性さゆえに、効果を発揮しがたいのです。さらには、そもそも理解されず、さらなる「悪意なき害悪」にさらされてしまうという結果を招いてしまうこともあるのです。
 また、社会学的に考えるなら、このような常識側からの意見は、言われた個人にとって有効に働く場合もありえるでしょう。深淵にはまり込むことは、社会的に有益性の低い営みである可能性は高いからです。
 ですから私のこの論考は、「悪意なき害悪」を無くすことを意図したものではなく(そんなことは不可能です)、少なくともそのような害悪が起こりうる可能性を(読んでくれている方々へ)提示したものに過ぎません。
 それぞれの深淵をとらえることができるかどうかは、個人の資質が強く影響しています。しかし、そういった深淵の問題があり、「悪意なき害悪」が起こりえるという構造については、理解可能な人は多いはずです。そして、この構造を理解しておくことは、何かしらの有益な結果につながる可能性が少しはあると、私には思えるのです。

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西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
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