ナショナリズム論(7) 国家の必要性
- 2014/6/21
- 思想
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コスモポリタニズムという理想
現代においてコスモポリタニズムを夢想することは、現実を無視した暴論だと見なされることがあります。ここではそこから一歩進んで、無限遠の未来にコスモポリタニズムを理想とすることの是非について考えてみます。
ここで説明のために、「強い進歩主義」と「弱い進歩主義」という区別を導入することにします。「強い進歩主義」とは、ナショナリズムや国家を乗り越えて、コスモポリタン(地球市民)を目指す考え方です。「弱い進歩主義」とは、今のところは国家もナショナリズムも必要ですが、遠い未来に向けてコスモポリタンを理想と見なす考え方です。前者には急進主義が、後者には漸進主義が関わっています。
どちらの方がマシかという議論もできるでしょうが、それよりもここでは、どちらも人間の完成可能性を前提にしているということを指摘しておきます。
人間は不完全でしかないと思う者は、自身の属する道徳を掣肘するために、他の道徳を必要とするのです。そのため、無限遠の未来のコスモポリタニズムは、ユートピア(理想郷)ではなくディストピア(地獄郷)にしか思えなくなるのです。
ちなみに私は、人間が完全ではなく不完全でしかないということは、意味のある人生の前提条件だと考えています。そのため、国境や国籍にこだわる時代は、過ぎ去ってはいないのだと主張しておきます。
国家についての考察は続く
国家について考えるということは、人間が完全ではありえない以上、それこそ人類に背負わされた永遠の課題なのかもしれません。ナショナリズムについても、注意深く考えることが必要でしょう。そのために、有名な西洋のナショナリズム関連の本を読んだりしてみたのですが、納得できない点が多々あったので、少しばかり踏み込んで論じてみました。自分なりに注意深く論じてみたつもりですが、反論や異論がありましたら指摘をお願いします。
【備考】
国家に対する建設的な議論については、『世界と国家と人生』も参照してみてください。
http://asread.info/archives/241
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コメント
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貴方の「国家は必要」という説は、私にとって眼から鱗で、感服しています。私は、今迄、ナショナリズムは情意に偏重しており、コスモポリタニズムは知に偏重していて、どちらか一方のみでは決して成り立たないもので、両者は重層的に共存(下層にコスモポリタニズム、上層にナショナリズム)するものであり、それ以外にはあり得ないと思っていました。知の所産を文明と解し、情意の所産を文化と単純に解してみると、知は一般性・普遍性を求めるところからコスモポリタニズム、情意は特殊性・個多性からナショナリズムとなる傾向があるとも考えて見ました。また、ナショナリズムは当為、コスモポリタニズムは存在とも考えたこともありました。