もう一つの「神やぶれたまはず」
長谷川さんが至った解答は、論理的にも思想的にも高度で素晴らしいものです。ですから、その論理の先を示すなどということは恐れ多くてとても言えません。私が示すのは、もう一つの思想の可能性に過ぎません。それはおそらく、長谷川さんの見解とも無矛盾で成り立つものだと私は考えています。
そのもう一つの可能性とは、「死」ではなく「敗北」という概念の対比によって示されるものです。
本書の第一章で、長谷川さんは柄谷行人氏の『〈戦前〉の思考』の言葉を引いていますが、その中に「ふつうの宗教では、神は戦争に負けたら捨てられる」という文言があります。ここには、もう一つの対比の可能性が隠されていると思うのです。すなわち、戦争に負けても捨てられることのない神々の可能性です。
ユダヤ・キリスト教の神を思想的に解釈するなら、負けたら捨てられるという事態を回避するため、原理的に敗北することのない神に祭り上げられたということを指摘できます。この属性は、死ねない神と同系です。死ねない神は、負けることがない神でもあるのです。たとえ神に祈って負けたとしても、その敗北は神のせいではないのです。その敗北の理由は、祈った者の信仰心の不足などに求められるのです。そういう設定を構築したのです。
この「設定」は極めて強力です。それゆえ諸民族がかつて祈っていた神々は、敗北することで捨て去られてしまったのです。それらの神々の代わりに、キリスト教の神は民族や国境を越えて広がり、世界宗教となっていったのです。
その歴史的経緯を踏まえれば、大東亜戦争の敗北後にはもう一つの奇蹟が起こったといえるのです。
確かに、折口氏の理論とはまったく異なる次元において、「神 やぶれたまふ」は成り立ちます。なぜなら、我々が敗北したのですから、共に戦ってくれた我々の神々も敗れたことになるからです。
しかし我々は、我々の神々と共に立ち上がったのです。日本の神々は、われわれ人間と共に戦い、ときには共に勝利し、ときには共に敗北する神々なのです。そして日本人は、共に戦ってくれた神々を見捨てることはないのです。
ここにおいて、人間と神々の関係における解釈が成り立ちます。すなわち、我々人間と共に戦い、共に敗れたにも関わらず、捨てられることなく共に歩み続ける神々という解釈です。この明らかに一段高い思想的次元において、我々日本人は、「神やぶれたまはず」と言えることになるのです。
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