思想遊戯(1)- 桜の章(Ⅰ) 桜の森の満開の下

第四項

 僕は、ベッドに寝っ転がって、今日の出来事を振り返ってみた。
 今日は、不思議な一日だったと思う。上条さんという、とても頭の良い女性と不思議な話をした。彼女の話はとても難しくて、とてもじゃないけれど全部は分からなかった。けれども、彼女がとんでもなく頭の良い人だということは分かった。そして、話す内容が、おそらくは、とても大事なことであることも。
 今日話したことは、坂口安吾の『堕落論』・『続堕落論』と『桜の森の満開の下』についてだ。『堕落論』では、安吾が堕落を勧めているのは何故かということを話し合った。僕は、堕落するということを真実と結び付けた案を出したのだけれど、ちょっと検討違いだったようだ。客観的に判断しても、僕の意見は幼稚だったと思う。僕なりに、本を読んで真剣に考えたのだけれど、彼女の意見の足下にも及んでいなかったと感じた。彼女の意見は、安吾の意図を文脈から冷静に分析していた。それどころか、安吾の文章から、別様の解釈の可能性を展開し、ものの見方が多角的であることを示してくれた。その上で、彼女は彼女の考えを堂々と述べていた。すごいことだと思う。
 『堕落論』について論じた後、『桜の森の満開の下』についても少し話をした。僕は、『桜の森の満開の下』を見ながら、その会話を思い出している。『堕落論』については、とても緻密で論理的な話だったけれど、『桜の森の満開の下』についての会話は、神秘的で幻想的に感じられた。『堕落論』の話だけでも僕は混乱していたので、『桜の森の満開の下』についての会話は、曖昧だったこともあり、ぼんやりと頭の中に入ってきていまだに反響している。自分の頭の中に、ちゃんとあのときの会話がとどまるように、本を読みながら漠然と思い出している。
 本をペラペラとめくって斜め読みしていると、〈とっさに彼は分りました。女が鬼であることを〉という文章を見つけた。僕は、ああ、そういうことかと思った。
 そうなんだ。僕は、今日、鬼に出会ったんだ。そして、また来週、僕は鬼に会いに行くんだ。
 『桜の森の満開の下』は、〈あとは花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした〉という文章で終わっていた。でも僕の今の心は、虚空がはりつめているわけではなかった。僕の心には、不思議な高揚感と、たしかな期待が踊っていた。僕は、鬼との邂逅を楽しみにしているのだ。僕は一人でニヤニヤして、その日はなかなか眠れなかった。

→ 次ページを読む

1 2 3 4 5 6 7

8

9

西部邁

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

  1. 2014-8-6

    経済社会学のすゝめ

     はじめまして。今回から寄稿させていただくことになりました青木泰樹です。宜しくお願い致します。  …

おすすめ記事

  1. SPECIAL TRAILERS 佐藤健志氏の新刊『愛国のパラドックス 「右か左か」の時代は…
  2. SPECIAL TRAILERS 佐藤健志氏の新刊『愛国のパラドックス 「右か左か」の時代は…
  3. 第一章 桜の章  桜の花びらが、静かに舞っている。  桜の美しさは、彼女に、とて…
  4. 「マッドマックス 怒りのデス・ロード」がアカデミー賞最多の6部門賞を受賞した。 心から祝福したい。…
  5. はじめましての方も多いかもしれません。私、神田錦之介と申します。 このたび、ASREADに…
WordPressテーマ「SWEETY (tcd029)」

WordPressテーマ「INNOVATE HACK (tcd025)」

LogoMarche

TCDテーマ一覧

イケてるシゴト!?

ページ上部へ戻る