思想遊戯(1)- 桜の章(Ⅰ) 桜の森の満開の下
- 2016/2/24
- 小説, 思想
- feature5, 思想遊戯
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第三項
智樹「こんにちは」
僕は、ベンチで本を読んでいる上条さんに話しかけた。彼女は、ゆっくりと読んでいた本から眼をはなし、僕の方に顔を向けた。しばらくの間、眼の焦点が合っていないように思えた。その焦点が段々と合ってきて、彼女の意識が本から僕に移っていくように感じられた。
一葉「こんにちは。ええと、佳山・・・智樹さん・・・・・・。」
彼女が僕のフルネームを覚えていてくれたことが、無性に嬉しく感じられた。なので、僕も名字ではなく、フルネームで返すことにした。
智樹「お久しぶりです。一週間ぶりですね。上条一葉さん。」
今日の彼女は、青で統一されたカジュアルな服装でたたずんでいた。前見たときのワンピースも素敵だったなとか、漠然と思った。服装について何か言おうか迷ったけれど、まだ今の関係で言うのはどうかと思うので、率直に前回の話題を持ち出す。
智樹「一週間前に約束したこと、覚えていますか? 坂口安吾の『堕落論』について、救いのためには墜ちきることが必要かどうかという質問と、その回答。」
一葉「ええ、覚えています。私も『堕落論』を読み直してきました。今は『桜の森の満開の下』を読んでいました。」
そう言って、彼女はにっこりと笑って、読んでいた本を僕に見えるようにかざした。確かに、『桜の森の満開の下』だ。気づかなかったのはうかつだった。僕の方から、そのことを指摘するべきだったのに。
僕は気を取り直してたずねる。
智樹「ここに座ってもいいですか?」
彼女は一人でベンチの真ん中に腰掛けていた。詰めれば四人は座れるくらいかな。
一葉「どうぞ。」
彼女はにっこりと笑って、右側にずれて、左側を僕にあけてくれた。ちょっと残念。並んで座ったときの距離が・・・。
智樹「失礼します。」
僕は、考えていることを悟られないように、微笑を浮かべてゆっくりと座った。並んで座って、上半身を相手の方へ向ける。見つめ合う感じになった。恥ずかしさに耐えられないので、さっそく議題に入ることにした。
智樹「ええと、救いのために墜ちきることが必要か、でしたっけ? それに対する僕の答えは、YESです。」
僕は、彼女の瞳を見つめて答えた。彼女は、真剣な顔で、僕をじっと見つめている。しばらく互いの顔を見つめ合っていると、しだいに彼女が優しい顔になっていき、できの悪い生徒を言い含めるような言い方をした。
一葉「どうして、YESなのでしょうか?」
僕の心臓の鼓動が、激しくなった。僕は、解答を間違ったのか? いや、じっくり考えてきたんだ。しっかりと理由を述べるべきだ。
智樹「ええと、坂口安吾のいう堕落とは、真実のことなんですよ。」
彼女はバックから分厚い革製の手帳を取り出し、パラパラとめくった。
一葉「確かに安吾は、〈堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ、生きよ墜ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか〉と述べていますね。」
僕は、彼女をまじまじと見つめながらたずねた。
智樹「メモってるんですか?」
一葉「メモしています。」
そういって、彼女はにっこりと笑った。とてもかわいらしかったが、やっていることは、多分、けっこう引くようなことだと思う。でも、笑顔が可愛いから良いか。我ながら、ダメな男の思考回路だとは思うけれど。
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