思想遊戯(1)- 桜の章(Ⅰ) 桜の森の満開の下

一葉「ヒュームは、〈どの道徳体系ででも私はいつも気がついていたのだが、その著者は、しばらくは通常の仕方で論究を進め、それから神の存在を立証し、人間に関する事がらについて所見を述べる。ところが、このときに突然、である、ではないという普通の連辞で命題を結ぶのではなく、出会うどの命題も、べきである、べきでないで結ばれていないものはないことに気づいて私は驚くのである〉と述べています。」
智樹「えっと、もう少し分かりやすく・・・。」
一葉「つまり、何々であるというのは、真(しん)に関わることなのですね。」
智樹「シン?」
一葉「真というのは、真実の真のことですね。真実とか虚偽とかを示すのに、何々であるとか、何々ではないという言い方をするということです。そして、何々すべきとか、何々すべきでないということは、善に関わることです。善悪の善ですね。分かりますか?」
智樹「そこまでは、何とか。」
一葉「ここで重要な点は、真実から善を導くことができないということです。少なくとも、そこには大きな隔たりがあるということです。」
 僕は違和感を覚えた。彼女の言うことは、おかしいのではないか? 少し考えてから、意見をぶつけてみた。
智樹「それは違うと思います。だって、本当のことを言うのは善いことで、嘘をつくのは悪いことでしょう?」
 僕がそう言うと、彼女は僕をじっと見た。僕は、なにか落ち着かなくなった。僕は、彼女から視線をそらせた。
一葉「佳山君は、本当にそう思いますか? 嘘をつくことは、悪いことなのでしょうか?」
 彼女は、不思議な迫力をもった言葉を放った。
智樹「いや、嘘をつくことが必ずしも悪いってわけじゃないとは思いますけど。」
 僕はぎこちなく答える。
一葉「はい。その通りです。嘘は、善いときも悪いときもあるのです。嘘をつくことが優しさになることもあり、相手のためになることもあります。そうだとするのなら、嘘そのものは善にも悪にもなるものであって、嘘から悪を導くことはできない、ということにならないでしょうか?」
智樹「何か、きつねに化かされた感じがしないでもないですけど・・・。」
 彼女は、薄く微笑んだ。
一葉「すぐに同意してもらえるとは思っていません。」
 少し寂しそうに語る彼女は、不謹慎にもどこか色っぽいなと僕は思ってしまった。
智樹「それで、その解釈ですと、救いのために墜ちきることが必要ではない、となるわけですか?」
一葉「そうです。私の解釈ですと、救いのために墜ちきることは必要ではありません。」
智樹「え~っと、そこのところを詳しく・・・。」
一葉「真実と善意は論理的に断絶しています。しかし人間は、そこを勝手に結びつけようとするのです。その結びつきを求める人々の生活の連なりが、歴史を形成していくのです。何故そんなことが起こるかというと、人間は心を持つ存在であり、心は選択を行うものだからです。選択を行うためには優劣が必要であり、そこには善悪が、すなわち、すべきだとかすべきでないとかという価値判断が必要になります。その善悪の判断材料は、事実と呼ばれる現象に求めるしかありません。そのため、論理的には断絶している対象を、論理の飛躍を行うことによって結び付けるのです。その結びつきは、個人レベルでは脆弱ですが、人々の営みを通じて強化されていきます。その結びつきが人間の群れを群れたらしめる段階にまで到達したのならば、それは、慣習や制度や伝統と呼ばれるものになります。このことは、人類史において日々行われていることであり、まったく当たり前の話です。」
 僕は、何がまったく当たり前の話なのか分からなかった。彼女が言っていることは、何かすごく不思議で変なことなんじゃないだろうか? 彼女の話す内容はとても難しくて、すぐに当たり前だと同意できるようなものではないように感じられた。ただ、それに対する反論とか、矛盾点の指摘とかもすぐには思いつかなかったので、僕は続きをうながした。
智樹「それで、どうなるということなのですか?」
一葉「つまり、人間が墜ちぬくには弱すぎるという表現は、人間は堕落という真実をそのまま肯定することができないという意図を含むでしょう。」
智樹「人間は、堕落という真実をそのまま肯定することができない・・・。」
 僕は、彼女の言葉を反芻した。
一葉「例えば、心の無いもの。例えば、道ばたに落ちている石は、真実をありのままに体現しています。」
智樹「道ばたに落ちている石は・・・。」
 僕は、当たりを見回したけれど、落ちている手頃な石を見つけることはできなかった。
一葉「道ばたに落ちている石と、人間は、違うのです。」
 彼女は、透き通る声で、そう唱えた。僕は彼女の言うことを、全部分かったわけではない。それでも、彼女が何か大切なことを述べようとしていることは分かった。
 ああ、それはきっと素晴らしい賛歌。心有るものたちを祝福する、女神の宣告。当たり前なことを、別の視点から見直すことによって、いつも見ていた光景は、まったく別の意味を持って、まったく別様な輝きをともなって観えるようになる。これは、そんな人生に起こりえる、小さいけれど、驚くべき奇蹟なのかもしれない。そんなことを、漠然と考えた。
一葉「人間は、堕落という真実では満足せず、善悪の判断へと歩みを進めます。そのため、堕落を墜ちきることは方法の一つではありますが、必ずしも必要だというわけではありません。ですから、救いのために墜ちきることが必要かという問いに対する私の答えは、NOになるのです。」
 そう言って、彼女は静かに僕を見つめた。
智樹「いや、あの、ありがとうございます。なんか、色々と面白い解釈を聴かせていただいて。」
一葉「そうですか? 私の話は、難しくて分からないとよく言われるのでが。」
 そういって彼女は、困った顔をした。
智樹「いや、難しいのは難しいんですけど、僕はけっこう、こういう哲学的っていうか、考え方の話は好きなんで、えと、面白かったです。」
一葉「本当でしょうか?」
智樹「本当ですよ。もっと色々と聴きたいくらいです。」
一葉「じゃあ、次は解答編を行いましょうか?」
 そう言って、彼女はにっこり笑った。
智樹「えっ?」
 僕は、間抜けな声を出した。
一葉「ここまでは、『堕落論』の記述をもとにした解釈でした。そして次の解答編は、『続堕落論』の記述も含んだ安吾の解釈を曝し出します。」
智樹「えっと・・・。」
一葉「聴きたくないですか?」
智樹「えっと、聴きたいです・・・。」
 僕は、彼女に続きをうながす言葉を発した。自分の意志で述べたというより、彼女の言葉に導かれるようにして、僕の口から言葉が漏れたように感じられた。

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西部邁

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