思想遊戯(1)- 桜の章(Ⅰ) 桜の森の満開の下
- 2016/2/24
- 小説, 思想
- feature5, 思想遊戯
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一葉「坂口安吾は『堕落論』の後に、『続堕落論』というエッセイを書いています。そこで、墜ちきることの必要性に関して、より具体的な答えが示されています。」
そう言って、彼女は手帳をめくった。
一葉「まず要点として、〈人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる〉と語られています。続いて、〈日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ〉とあり、安吾は堕落を勧めているのですね。」
智樹「面白いですね。」
僕は『堕落論』に続いて、『続堕落論』も一応は読んできていたので、その内容を思い出しながらうなずいた。
一葉「次の要点は、安吾自身が堕落を悪しきことだと認めているところです。〈堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに墜ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない〉とあります。そして、〈我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない〉と安吾は語っています。」
そう言って、彼女は手帳をパラパラとめくった。
一葉「以上の記述から、安吾が意図していた堕落と救いの意味が明らかになります。堕落とは、単純化して述べてしまえば、自分勝手なエゴイズムのことです。道徳や倫理を度外視したエゴイズムの徹底こそが、墜ちきることを意味しており、安吾によって奨励されているこが分かります。」
智樹「確かに、そう言われてみれば、そうとしか考えられないように思えます。でも、なぜ安吾はエゴイズムの徹底を奨励しているのですか?」
彼女は、僕の言葉にうなずいて話を続ける。
一葉「そうですね。ここでは、『堕落論』で人間が、〈墜ちぬくためには弱すぎる〉と指摘されていたことに注意が必要です。人間は、エゴイズムを徹底できるほどには強くはないということです。人間は、利己的なままではいられず、利他的なことを求めざるをえないということです。利己的というのは自分勝手に考えることで、利他的というのは他人のためになることを考えることですね。安吾は、利他的なことを求めるためにも、まずは徹底的に利己的なことを求め、墜ちきることによって、利他的な方向へと進むことができると考えているのです。」
だいぶ理解できてきたような気がした。なるほど、そういうことか。
智樹「理解できたような気がします。でも安吾の考え方は、一種の極論じゃないですか? 方法の一つとしてはありですが、別に墜ちきることはないと思います。ほどほどに墜ちて、つまり利己的に振る舞って、それで空しさを感じて、多少は利他的になれればよいだけのような気がしますが。」
彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
一葉「はい。そうですね。私も、安吾の考え方は一種の極論だと思います。『堕落論』が書かれたのが敗戦時ということを考えると、この過激な意見がもてはやされてしまった要因として、敗戦のショックが考えられます。」
そう言って、彼女は視線を遠くへ向けた。彼女の視線の先には、桜の木がある。穏やかな風が、彼女の髪を静かに揺らす。
智樹「人間は、堕ちぬくためには弱すぎる、か。いい言葉ですよね。」
一葉「そうですね。でも、私は、人間が弱いから、墜ちきることができないのではないと考えています。」
彼女は、桜を見つめたまま話を続ける。
一葉「人間が心有る存在である以上、心が、この心を通じて複数の心と通じ合わざるをえないという世界の仕組みからして、どうしようもなく、人間は、利己的ではなく利他的なことを考慮しなければならないのです。」
僕は、彼女の言葉に、どうしようもないほどの危うさを感じた。
智樹「ちょっと、今、上条さんが言ったことは、難しくて理解し切れていないのかもしれないのですが、その意見にはちょっと同意しかねます。利己的ではなく利他的であることを目指すべきだとは思いますが、利他的なことを考慮しなければならないというのは、ちょっと違いませんか?」
僕がそう言うと、彼女は少し考え込むそぶりをみせ、しばらくして答えてくれた。
一葉「佳山さんのおっしゃることは、その通りだと思います。ですが、分かりにくくて申し訳ないのですが、私の今言ったことは、佳山さんの言いたいことが成り立つための土台の話なのです。」
智樹「土台?」
一葉「ええ。例えば、道徳とか倫理の議論では、もちろん利己的な振る舞いはとがめられて、利他的な振る舞いが称賛されますよね?」
智樹「そうですね。」
一葉「そこで、そういった議論が成り立っているということは、利己的および利他的であるということが、議論をする者たちの間ですでに共通認識として成立しているということになります。」
智樹「う~ん。そりゃあ、そうなりますよね?」
一葉「はい。そうなります。つまり、道徳的には、利己的なことと利他的なことを比べて、その上で利他的な行為を行うことが称賛されるわけです。ここで面白い点はですね、エゴイズムを徹底するためには、この構造がそのまま成り立って、最後だけ逆にすれば良いのです。つまり、自分勝手に振る舞うためには、利己的なことと利他的なことを比べて、その上で利己的な行為を行えば良いわけです。」
僕は、彼女の言うことを理解しようと努めた。彼女は、とても恐ろしいことを述べているのだと思った。とても危険で、魅惑的なことを述べているんだ。
智樹「そう・・・かもしれませんね。」
一葉「つまり、利己的に振る舞うためにも、利他的なことを考慮しなければならないのです。さらに詳しく述べれば、人間が一人では生きられないという、生物学的な観点からの洞察が必要です。さらに、人間は他人の影響なしには、自らの思考を自立させることができないという心理学的な観点も重要です。ですが、これらは些末な問題ですし、専門的に過ぎるので置いておきます。」
彼女は、桜から僕の方へ視線を移した。
一葉「話が少し脱線気味になりました。話を戻しましょう。」
僕はうなずいた。
一葉「坂口安吾が『堕落論』や『続堕落論』で示したのは、利己的ではなく、利他的なことの大切さです。そのために、利己的な堕落を方法論として語ったのです。」
彼女は、手帳に眼を落とした。
一葉「私の好きな坂口安吾のエッセイに、次のような言葉があります。〈いのちを人にささげる者を詩人という。唄う必要はないのである〉と。」
智樹「詩人・・・。」
一葉「詩人は言葉を人へと伝えます。人に何かを伝えるということは、他者の心を認めているということです。自分の心と、他人の心。そこに共通の何かを想定しているのです。そこには、人間が利他的になりえる可能性が示されていると私は思います。」
僕は少し考えてから感じたことを述べた。
智樹「利他的であるということは、自分のいのちを人にささげるという可能性を秘めているのかもしれません。」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
一葉「このエッセイには、他にも大事なことが示されています。例えば、〈我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか〉とあります。他にも、〈美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ〉とあります。安吾は、〈私の卑小さにも拘らず偉大なる魂は実在する。私はそれを信じうるだけで幸せだと思う〉とも述べています。真実には、美しい真実と、醜い真実があります。まもり育てるべきは・・・。」
そこまで言って、彼女はまた、桜の方へ目を向けた。僕は彼女の横顔を眺めながら、そっとささやいた。
智樹「桜は美しいですよね。」
僕は、そう言った。桜の花は、まだ咲いていないのに。
一葉「そうですね。桜は美しいです。」
彼女は、まだ咲いていない桜の木を見つめながら、僕に同意してくれた。
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