思想遊戯(1)- 桜の章(Ⅰ) 桜の森の満開の下
- 2016/2/24
- 小説, 思想
- feature5, 思想遊戯
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智樹「え~っと、まあ、その、そうなんですよ。安吾は堕落を、真実を明らかにするという意味を込めて使っているんですよ。だから、ええと、『堕落論』は戦争後に書かれたのですけど、戦争によってふさがれていた欺瞞というか、そういうものを批判して、真実を明らかにするってことだと思うんですよ。それで、真実を明らかにするってことは、ある意味で堕落することでもあるんじゃないかと思うんですよ。」
たどたどしくだけど、僕は彼女に自分の考えをぶつけてみた。彼女は、真剣に聴いてくれていた。
一葉「つまり、真実を明らかにすることは一種の堕落であり、墜ちきることは、真実を追究することになるということですね?」
智樹「そうです。そう。だから、救いのためには、墜ちきることが必要になるんですよ。だから、救いのために墜ちきることが必要かという問いには、YESと答えたわけです。上条さんも、そう思いませんか?」
僕は嬉しくなって、彼女にたずねた。彼女は少し考えるそぶりを見せてから言った。
一葉「確かに、そういった見方もあると思います。」
それから彼女は、手帳に眼をおとして言った。
一葉「〈墜ちる道を墜ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない〉という安吾の言葉もあります。ただし、その前に、こういった記述もあるのですよ。〈戦争に負けたから墜ちるのではないのだ。人間だから墜ちるのであり、生きているから墜ちるだけだ〉と。」
人間だから墜ちる・・・。僕は、彼女が何を言おうとしているのか分からずに、首をかしげた。そんな僕の様子を見て、彼女は言葉を続ける。
一葉「安吾は、こう言っているのです。〈だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、墜ちぬくためには弱すぎる〉と。ここで、人間が墜ちぬくには弱すぎるという表現が出てきます。これには、いくつかの解釈が可能です。」
そういって、彼女は僕を見つめた。意見を求めているのだろう。
智樹「真実はときとして残酷なため、それに耐えられない・・・とかですか?」
一葉「そうですね。それも一つの解釈として成り立つと思います。」
僕は、ちょっとカチンときて、強めに言ってしまった。
智樹「では、他の解釈は? というより、上条さんの解釈はどうなんですか?」
彼女は、少し間をおいて答えた。
一葉「安吾が、どういう意図で言ったのかは意見の分かれるところでしょう。なぜなら、この文章は、いくつかの解釈が可能になっているからです。佳山さんがおっしゃった、真実が残酷というのも一つの解釈です。補足すると、真実を追求することが、残酷さにつながってしまう場合もありえるということです。その場合には、真実によって堕落が暴かれ、それに耐えきれずに堕落からも逃げ出すことになります。ですが、この解釈では『堕落論』の記述とは異なる点が多く、支持できません。」
彼女は、すらすらと僕の解釈を却下した。あんまりすんなりダメ出しをくらったので、僕は反発することもできず、おずおずとたずねることしかできなかった。
智樹「では、『堕落論』に合うような解釈とはどのようなものなのでしょうか・・・?」
一葉「堕落を示すことは、同時に堕落していない状態を示すことを意味しています。これは、単純に論理的に導かれる結論です。堕落していない状態とは、堕落している身からすると、それ自体が救いの状態だと見なすことができてしまいます。堕落の状態は、同時に救いの状態を示してしまうのです。少なくとも、その可能性はあると言えるでしょう。」
僕は、半分くらいは分かったような気がした。
智樹「・・・・・・そうですね。」
一葉「はい。救いが見えないときには、まず墜ちることによって、救いを見出すのです。あたかも部屋を暗くすることによって、明るいときには気づかない光源を見出すことができるように。そして、堕落という闇の黒さを深めることによって、光源への恋慕を高めることも期待できます。そのためにも、堕落を堕落としてはっきりと認識しなければならない、といったところでしょうか?」
彼女は、すらすらと自説を述べる。彼女はとても頭が良いのが分かった。彼女は手帳に眼を落として話を続ける。
一葉「『堕落論』には、〈人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく墜ちる道を墜ちきることが必要なのだ〉と書かれています。堕落を突き進むことで、救いが見えてくるというのです。そして、墜ちきることで、救いへと向かう気力がわいてくるのかもしれません。」
僕は、彼女を見つめて言った。
智樹「それが、上条さんの解釈なのですね。」
彼女は、にっこり笑って言った。
一葉「いいえ、違います。」
智樹「違うのですか!?」
びっくりして、思わず突っ込んでしまった。
一葉「私の解釈は、『堕落論』の結論を深めたものになります。」
智樹「・・・・・・すいません。よく分からないのですが・・・。」
一葉「人間が墜ちぬくには弱すぎるという表現は、別の角度からの解釈を許容します。おそらく坂口安吾が意図していなかった解釈の可能性によって、『堕落論』では提示しきれていない論点を示すことができるでしょう。」
智樹「それは・・・、どういった論点でしょうか?」
一葉「それは、真偽と善悪のあいだの断絶と結合によって示すことができる、善のあり方です。その論点から、救いのために墜ちきることが必要かという問いに対する私の答えは、NOになります。」
僕の頭はこんがらがってきた。
智樹「あの、ちょっと意味が分からなくなってしまったのですが・・・。」
彼女は、手帳をパラパラとめくり、あるページに眼を止めた。
一葉「デイヴィッド・ヒュームという哲学者の『人性論』という本には、面白いことが書かれています。」
智樹「どのようなことでしょうか?」
突然、哲学者の名前が出てきて、僕はさらに混乱していた。
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