古市憲寿が日本のために戦うと言うとき [後編]
- 2014/5/31
- 思想
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個人と国家
個人と国家、この二つの異なった根拠から、二つの道徳が導かれます。
古市さんは、「自分の個人の命より大事なものってなかなかないと思うんですね。自分の命を犠牲にしても国家のために戦うんだったら、個人の命を大事にする、これ誰しも成熟した国の国民の対応として…」と述べています。まさしく個人を根拠とした道徳です。この道徳は、国家を根拠とした道徳の観点からは、まさしく非道徳的に見えてしまうのです。
では、この個人を根拠とした道徳は、彼の言うように成熟した国の国民のものなのでしょうか? その答えは、やはりNOだと言わざるをえません。
その理由は実に簡単で、そのような国民による国家は、軍隊は当然のこと、警察や消防のような治安維持のための機構がうまく機能しなくなるからです。警察官や消防団員は、見知らぬ人のために自らの命を危険にさらす職業です。それは国家を根拠とした道徳によって賛美される行為であり、それなくしては安定的な国家運営はほとんど不可能になります。それゆえ、個人を根拠とした道徳は、成熟した国民のものどころか、未熟な国民のものでしかないのです。どこの国とは言いませんが、ある国の状況を見てみれば分かることです。
ちなみに、古市さんが言うような「グローバル警備会社」を持ち出したとしても、そのグローバル警備員が見知らぬ人のために、自らの命を危険にさらさなければならないという問題は出てくるわけです。
もちろん、さらに幼稚な論理を続けることもできます。命を危険にさらす職業は未熟な人間が行うもので、成熟した人間はそんな職業にはつかない、などと言い張ることです。意識的か無意識的かはともかく、個人を根拠としている人は、このような下賤な考え方をしているように感じられます。
戦後民主主義という異常
個人を根拠とした道徳は、自己弁護が行き詰るように思えます。ですから、普通の国家では、それなりの地位にある人や発言力のある人が、国家よりも自分を優先した言葉を吐くことは、その人の立場を致命的に悪くしてしまいます。そのため、たとえ個人を根拠として生きている人でも、安易にそのことを公言したりはしないものなのです。
しかし、ここに一つの例外があります。第二次世界大戦後の日本です。すなわち、戦後民主主義体制という異常な言論空間です。この異常空間において、個人を根拠とした道徳が賛美される異常事態が生まれたのです。
そのカラクリを簡単に説明してみます。まず、アメリカの属国になって軍事的に守ってもらい、自分たちの安全を確保します。その上で、日本の独立を望まないアメリカの要望を利用して、日本の軍事力強化につながる案件に反対するわけです。
ただし、この行為を露骨に展開すると、アメリカに擦り寄っていることがバレてしまいます。そこで、反アメリカ的な言動も適宜行うことによって、この奇妙な状態を維持するようにするのです。
この奇妙な状態を利用することで、個人を根拠とした道徳という奇妙な立場が、一定数の賛同を得られるようになるのです。
このような立場は、「人間は戦うことで大切なものを守らなければならないときがある」という考えや、「人間には命よりも大切なものがある」という考えを持たないという、かなり特殊な精神状態に陥ることで可能になります。
別の言い方をすると、「どんなに卑劣な方法でもよいから逃げて自分の命を延命させる」という考えに通じるものです。つまり、個人を根拠とした道徳とは、ほとんどが「個人」ではなく「自分」のための論理でしかないのです。
信頼関係
国家を根拠とする道徳についても、少し考えてみます。ベネディクト・アンダーソンは、国家を「想像の共同体」と呼びました(『ナショナリズム論(4)』参照)。この「想像の」とは、見知らぬ人を含むという意味です。つまり、国家は見知らぬ人を含んだ共同体だということです。
ここに、一つの深刻な問題が浮かんできます。すなわち、見知らぬ者に対してどうやって道徳的な関係が築けるのか、という問いです。これは重要な論点です。なぜなら、道徳の根底には信頼関係が必要だからです。信頼関係は、通常は長年の付き合いによって築かれていくものです。そうだとするなら、見知らぬ人たちとは、道徳的な関係を築くことはできないように思えてきます。
そこで国家を根拠とする者は、人間が生きていくためには様々なものが必要であり、多くの他者とのつながりが必要不可欠だと考えます。その範囲は、見知らぬ人を含めざるをえないほどに広いと見なすのです。そうだとするなら、見知らぬ人を含むとしても、その人たちを含めた上での道徳が必要であらざるをえないというわけです。
そのため、そこで「歴史」が論拠として持ち出されることになります。国民に必要な共通観念が、歴史的に形成されてきたという論拠です。この論拠は不完全さを免れえませんが、それなりの妥当性はあると思われます。
そして、その妥当性が現実に適用している程度において、その国家を根拠とした道徳は、その国家を根拠としている者たちによって余命を保つことになるのです。
一方、自分を根拠とする者は、自分という個人の安全をどのように確保するかを最重要視します。そのため、自分を根拠とした道徳において、国家を根拠とした道徳を利用するという可能性が出てくることになります。
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2コメント
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反論はないが、結局のところいい答えが見つからなかったですね。
古市が言っている合理性とは、生の対極は死であって、ただ死にたくないと言っているだけだ。
そこに国家とか個人といった概念は存在しねんじゃねーの。
unkのコメントについて。
> 古市が言っている合理性とは、生の対極は死であって、ただ死にたくないと言っているだけだ。
この発言の根拠を提示してください。
問題の放送中のどこの発言から、このような結論が導かれるというのですか?
> そこに国家とか個人といった概念は存在しねんじゃねーの。
記事中で、古市の発言の中に「個人」や「国家」という用語があることを示した上で、
〈ほとんどが「個人」ではなく「自分」のための論理でしかない〉と
私の解釈を示しているでしょう。
最低限の礼儀として、
きちんと内容を読んで理解してから批判してほしいものです。
申し訳けありません。大変失礼いたしました。個人ではなく自分でした。
わたくしは人間の感じる恐怖とは死を源泉にしていると思っています。
普段感じている恐怖の根源を深く追っていくと死につながります。
ですから、古市が逃げるといったのは怖いからだと思うのです。その点で合理的だと思ったのです。
国家のために個人が犠牲になるのは成熟した社会ではないと古市は言っています。
その発言の根拠は何なのかまったくわかりませんが、国家の元に生まれ、その利益を十分に享受して
おきながら、その一方では簡単に個人よりは重要でないと言い切る。
輪廻転生の世界で言えば、古市はつぎに鳩かモヤシかタンポポみたいなものとして生まれ変わるでしょう。
彼の内心はしりません。彼の言動、その人の行動原理を抽出し、わたくしなりにシミュレーションしました。
最近テレビに出ている古市さんを見てここ2.3日興味を持っています。
そこでネットで検索してたどり着いて読ませていただきました
まず戦争になれば逃げるといった古市さんの発言は建前で物を言うばかり世間の中で、正直すぎて個人的には面白く感じました。
しかし理性的に考えると木下さんが言うとうりなシナリオが安易に描けてしまい残念に思います。
ここからは僕の意見ですが、第二次世界大戦時に軍部が暴走し、それにメディアが乗っかり民衆は日本旗を
掲げイケイケドンドンな風潮がありました。それは日本人が持つ協調性のいい部分が悪い方向へと流れて
しまった結果だとおもいます。大衆が右を向いたから自分も右ではなく、少数ながら左を向く者がいてもよろしいのではないでしょうか。
第二次世界大戦時も戦争を反対していた人は少なからずいると思います。しかしそれは非国民として反道徳心=悪として大衆は拒絶しました。
僕が言いたいのは、逃げるという選択を選ぶ者と戦うという選択を選ぶ者どちらか一方が正しいとは言い切れないと
言うことです。
例えば国を守るために戦うといった1人の人間の横で「俺は逃げる」という人間をどう思うかでまた1つ見方が変わると思います。
ある人はズルいと考え、ある人はかっこ悪いと考え、ある人はかわいそうと思う人がいるでしょう。
前者2つに関しては大半の考えでしょう。しかしかわいそうと思う気持ちが大事だと思います。
戦争とは美化してはいけないものですが、守る戦いならば自分もしくは身近な人を飛び越え、時間の中で
触れ合った人やもの、それらを壊すようなことがあれば戦うのが幸せな人でしょう。
そこで逃げる人とは、自国にいながらその幸せを感じることが出来なかった不幸な人となります。
日本は幸せな国となった反面死ぬ為の大義名分がない中、何かの為に命を掛けれるというのは幸せなのかもと考えます。
木下さんの見解面白かったです