近代を超克する(2)「近代の超克」論文を検討する[前編]

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「近代の超克」特集ページ

 「近代の超克」に関する言説から、近代の意味と、それを超克するための方法について検討していきます。まずは、各メンバーの論文から検討していきます。

亀井勝一郎『現代精神に関する覚書』

 亀井の論文では、近代文明が人間の感受性の頽敗をもたらしたことが指摘されています。機械の発達による急激な変化によって、繊細な感覚が無残に蹂躙されてしまう危険性が示されているのです。
 亀井は、明治の開国とともに始まった悲しむべき近代的習慣を「速成化」と名付けています。闇雲に効率性を追求することの危険性が、しっかりと認識されているのです。保守思想を参考にするなら、急進主義(急激に変革しようとする主張)を批判し漸進主義(徐々に進めようとする主張)を勧めているとみることができます。この認識は重要です。
 ただし、単純に急進主義がダメで漸進主義が素晴らしいというだけでは足りません。夏目漱石が『現代日本の開化』で述べている内発的・外発的の区別が必要なのです。内発的とは、「内から自然に出て発展する」ことであり、外発的とは「外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取る」ことです。
 内発的な場合は、急進主義ではなく漸進主義を採用すべきでしょう。外発的な場合は、急進主義を取らざるを得ない場合があるのですが、そのときは漸進主義を採用できない苦渋を心に留めておくべきなのです。

西谷啓治『「近代の超克」私論』

 西谷の論文では、近代的なものがヨーロッパ的なものであることが指摘されています。ですから、日本における近代的なものも、明治維新後に入ってきたヨーロッパ的なものに基づくことになるのです。
 西谷は、日本に輸入されたヨーロッパ文化が、切れ切れに入ってきたことを心配しています。その原因は、輸入された西洋文化そのものが、西洋自身によっても連関が失われていたものだったからだというのです。つまり、まとまりを失った西洋の文化そのものに問題があり、日本はそれを輸入してしまったのだというわけです。
 まとまりを生む方法としては、宗教性が挙げられています。そこで西谷は、西洋近世の宗教性に対し、東洋的な宗教性を持ち出すのです。西洋的な宗教と東洋的な宗教の対比、その相違を明らかにすることによって打開策を提示しようとしているのです。具体的には、次のように述べられています。

 宗教の徹底的な超越性が、かゝる徹底的な内在性と相即し得なかったところに、近世西洋の宗教性の限界、及びその宗教性の行き詰りがあつた。この道を与へ得る宗教性は、東洋的な主体的無の宗教のみであり、そこに将来の世界とその世界の宗教に対して東洋的宗教性が荷ふ大なる意義があると思ふ。

 キリスト教のような一神教は、「神」を人間の世界を超えた超越性の次元に設定しています。「神」は人間の世界を超えたところにあるのです。一方、我々人間の世界は、世界を超え出ておらず世界の内にあるため内在性の次元にあることになります。ここに、超越性と内在性という二元論が生まれるわけです。しかし、主に科学技術の発達により神の虚構が曝かれるようになると、超越性と内在性の(ある意味において対等だった)関係性は、内在性における超越性の設定の有無として論じることができるようになるのです。
 この問題においては、哲学者カント(1724~1804)が最重要人物として挙げられます。カントは、経験を超えた超感性的なものについての認識における「超越的(transcendent)」と、ア・プリオリ(先天的)な認識が如何に可能かを問題とする認識における「超越論的(transcendental)」という語彙を区別しました。この区別は、超越性と内在性の関係性を考察するときには必要な概念です。
 西洋的な宗教、特にキリスト教の世界観では、内在性における超越性の設定という歪んだ関係性が問題になりますが、東洋的な宗教ではその歪んだ関係性をほとんど無視できるわけです。確かに、この相違はかなり大きいでしょう。
 このような認識の上で、日本の国家精神は、東洋的な宗教性と親和性があることが語られています。そのため大東亜戦争における建設は植民地の獲得なのではなく、世界の新秩序の樹立は正義の秩序の樹立になると西谷は言うのです。
 大東亜戦争後の世界に生きる日本人にとっても、統一的世界観の樹立と新しい人間の自覚的形成のために、日本の精神性が方向を与え得るという西谷の指摘には参照すべきものが含まれています。ただし、このような考え方には危険性が含まれていることも否めません。なぜなら、一神教に基づいたキリスト教的な世界観の否定は、現実の世界においてどのような影響を及ぼすのか不確定だからです。私は、日本人はキリスト教的世界観から距離を取っておくべきだと考えていますし、現にクリスチャンを除く日本人のほとんどはそうしています。
 しかし、他国へそれを強制することは危険ですし、提言することにも慎重になるべきでしょう。

諸井三郎『吾々の立場から』

 諸井の論文では、音楽を通して近代文化について語られています。近代音楽は西欧近代文化の一翼ですので、音楽としての特殊性はありますが、その根本的性格は近代文化一般に共通するという解釈がなされているのです。
 その上で、近代文化はヨーロッパ的なものであり、人間中心主義であることが指摘されています。日本における近代は西洋文明の模倣による混乱であり、その混乱状態を正視することで、日本の近代と西欧の近代の相違をはっきりさせるべきだと考えられています。
 そのためには、日本の近代文化に対する国民的反省をし、西洋文化の盲目的模倣から目醒めることが必要です。ただし、単純な西洋否定について諸井は警戒しています。西洋を超克することは、単純な西洋の否定ではないというのです。我々は西洋文化の本質を知る必要があるということです。その上で、西洋文化に対して取るべきものと、捨てるべきものを明確にすべきだというのです。つまり、西洋文化の摂取を、批判的に体系的にすべきだということです。
 さらに、日本的意味での近代の超克が西洋文化の超克であるなら、日本の古典に対する反省と探求が当然ながら必要になります。諸井は単なる回顧なのではなく、「復古とは維新である」という立場をとっています。古きものを探るということは、ものの根源について考えることだというのです。日本の古典を知ることは、精神的な意味において日本の根源的なものを知ることになるというのです。
 そのため日本的意味における近代の超克は、日本人の文化を築くことになるのです。


※第3回「「近代の超克」論文を検討する[中編]」はコチラ
※本連載の一覧はコチラをご覧ください。

西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
ウェブサイト「日本式論(http://nihonshiki.sakura.ne.jp/)」を運営中です。

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